2025年1月のエッセイ
さまざまな私へ
久保純夫
昨日、畑で大切に育てていた里芋―毎日水を欠かせない野菜で真夏には朝夕2回の水遣りを日課としている―を持ってきてくれた。
昨年は忘れられて貰えなかった。その憾みを、去年は雑煮の里芋をスーパーで間に合わせたわ、と新年になってから、彼に浴びせた。
えっ、そうかぁあげたとばっかり思っていたわ、という悪びれない答だった。
ところが、それを気に留めていた、というか、気にしていたのか、先日も初めて掘ったんや、と2種類の里芋を持ってきてくれ、講釈もしてくれた。
昨日は2回目のプレゼント。雑煮用の里芋を持ってきたで、と丸まる太った芋がたくさん入っている袋を先ずは見せてくれるのだった。
僕のところに生産した農作物をくれる時は、必ずその仕種。そして感想を待っている。立派な○○やなぁ、と言うことに決めている私である。
今回は、これで美味しい雑煮ができるわ、ありがとさん。
彼はすっかりお百姓さんになりおおせている。
しかしその性格が災いしてか、せっかく立派な作物を収穫しても、その大半は親戚、友人、知人にあげてしまう。
勿論、僕もその恩恵に授かっているのだが。これが百姓の悲哀や、といつも言っているのが、少し悲しい。つまりは僕が大切な心友としている所以である。
そこでの雑談。彼はいっぱしの知識人である。言い方が悪ければ、さまざまな情報を自ら培った教養人である。
曰く、昔から俳人は、俳号と称する別名をものしている。これは何事なのか。オレが思うに、日常とは遠く離れた別人格を持つためなのだ。それが俳句を作るための最も大切な要素、手段となっているんだよ。
そうすることで、その俳人は自身が属する人だけではなく、黒猫になったり、柴犬にもなるんだ。さらには大欅や青蔦、みちのべの草紅葉やままこのしりぬぐいという変な名前の野草にもなったりできるんだよ。あんたもそうやろ。
と、僕の方に槍を向けてきた。こんな風にして、俳句に限らず、いつもあらゆる状況を素材として、やり込められるのが常のことなのだ。それで、勉強させてもらっている、と言い換えてもよい。英ちゃん、ありがとさん。
近ごろ、こういう頂きものした時、御礼?のイミをかねてそのものの俳句を5句作っている。
その幾つかを披露してこの原稿の責を果たすとしよう。
一尋というを教わり富有柿
右脳で成熟をする富有柿
ふたつ目を捧げられたり富有柿
結界と指差されいる富有柿
富有柿あまたの粋を集めけり
性愛を剝かれていたり富有柿
ラ・フランスどこを剝いても戀女房
制度から少しく離れラ・フランス
腹上死などとあこがれラ・フランス
追熟の若紫なのよラ・フランス
ラ・フランス芯から乱れ始めたる
寒紅のように林檎が届きけり
さまざまな蜜を隠して来る林檎
穏やかに喉を宥めし林檎かな
学生に林檎の性を隠しけり
おもむろに林檎となりし吾妹かな
(以上)
◆「さまざまな私へ」:久保純夫(くぼ・すみお)◆