私の極愛句集(6)
過剰な偏愛は心を解放する
―『鶴の鬱』閒村俊一
佐藤りえ
句集という書物には、美しいだけでなく、どこか異な物であって欲しい、という気持ちが心の片隅にある。感じがいいとかシンプルとかチャーミングとかの常識的な美点を超越して、手に取るのに少しの勇気がいるような、持ち重りした手が汗ばんでしまうような、圧倒的な存在感を示してほしい。
閒村俊一さんの『鶴の鬱』はそうした偏愛を受け止めて余りある奇書だ。
本体は128mm×215mm、菊判を縦長にしたような判型のクロス装上製本。題字がつや消し銀でデーンと箔押しされた白い函におさめられている。本文紙はリ・シマメという名のファインペーパーが使用されている。普段本文紙に使用されるような白く平滑な紙とは違い、特殊な硬いフェルトでプレスして凹凸をつける「フェルトマーク」と呼ばれる製法で作られたこの紙は、布目のような風合いを持ち、且つ分厚い。そのため本文168頁に対して、背幅が18ミリもある。
そんな特徴的な本文紙に、俳句が頁中心に一句、ガツンと活版印刷されている。活字の大きさは二号活字(32級相当)。憧れの内外印刷製だ。化粧扉、目次には朱色も使用され、ガッツリ明朝体でありながら、どこかフランスのペーパーバックの装いも感じさせる。
普通の句集、とはどういうものをいうのか、ちょっと迷うが、ちょうど手元にある八田木枯『鏡騒』と比較してみよう。A5変形判、206頁で背幅は18ミリ。頁二句組みで活字の大きさは4号ぐらい(20級相当)。だいたい句集の句組みは20~24級ぐらいだと思うので、『鶴の鬱』の二号活字は三まわりぐらい大きい文字ということになる。文字通り物理的に目に飛び込んでくる衝撃がある。
こんなでかい意匠に、なまなかな句ではおさまりがつかない。
崑崙の霞配送先不明
三―六の死に目やあはれ春の雪
鬱々とザッヘル゠マゾッホ傳の黴
酸漿を鳴らせよカムパネルラの莫迦
古今東西を觔斗雲で怪しく馳せ巡るがごとき句の数数に、思わず笑みがこぼれてくる。
そもそも閒村俊一さんは装釘家で、先述した『鏡騒』も閒村さんのデザインによるものである。『新校本宮澤賢治全集』『新編中原中也全集』『塚本邦雄全集』などをはじめ、膨大な数の書籍を手がける屈指の装釘家だ。そんな氏ならではの章「時雨集」が句集の巻末に用意されている。「わが装釘になる本の數々に拙句奉る」の献辞のとおり、書名が詞書として付された句が並ぶ。
『谷崎潤一郎と異國の言語』野崎 歓
春深し卍に開く人の妻
『新編中原中也全集』
坊やその月夜の帽子とつてくれ
『塚本邦雄全集』
悦楽園本日閉園初時雨
プロフィールには「学生時代洛中の書肆にて『定本加藤郁乎句集』、塚本邦雄『百句燦燦』に出会ひ作句を始める」とある。大胆なカリカチュア、季語の用法、句材の縦横無尽な広さ、表記への拘り、などの氏の句の特徴について、なるほどと思われる出自が明かされている。
書棚の一隅にあるこの書は、黙しつつも置かれた一角の時空を歪ませるような存在感を放ち、時折ひらいてはうひうひとほくそ笑む愛読書となっている。ある種の過剰さが逆説的に心を解放し、自由を思い起こさせてくれる。
このような不思議な体験を繰り返し味わわせてくれる特異な書物を、これからも偏愛していきたい。
※引用句、引用文は底本上では正字が使用されています。底本上の著者表記「閒」は門構えに月です。