私の極愛句集(5)
夜景の残像
―『フラワーズ・カンフー』
細村星一郎
『フラワーズ・カンフー』は2016年に上梓された小津夜景の第一句集である。第8回田中裕明賞を受賞し俳句界に半ばどよめきに近い驚きを以て迎えられたこの句集は、当時の私にとって異形そのものだったし、その感覚は多くの俳人にとっても決して大きく相違しなかったことだろう。
軽妙な語の配列を駆使した俳句を中心に八田木枯の句を主題とした短歌や漢詩の再解釈、詩や散文が散りばめられた句集(と呼んでいいのかどうかすら戸惑った)は、遊園地のように目まぐるしい。しかしながら闇雲なようでいて全編に通底する品の良さを失わずにまとめ上げられているのはひとえに技術のなせる業であり、そのスマートさこそが小津の魅力である。
あたたかなたぶららさなり雨のふる
サイダーをほぐす形状記憶の手
火を恋はばひらく薬香わがものに
小津は師をもたず、俳句のロジックに縛られない。俳句の骨法を押さえた句が現れたかと思えば、次の瞬間にはあさっての方向から詩情が飛来する。加えて短歌や漢詩すら操る様は、まさに縦横無尽というべき奔放さであった。
当然ながら初読の際には、駆け出しなりに俳人として大いに驚き、感動し、憧れ、嫉妬したものだ。
青写真なみだのうみにうみなりが
しろながすくぢら最終便となる
ゆくりなき雪の重さの音叉かな
当時は自在に駆ける小津の作品を必死に目で追うばかりであったが、今にして思えばそこに重要な気づきがあった。『フラワーズ・カンフー』という異星人の襲来により、地球さながらに私が接地していた俳句界の異質性にむしろ気付かされたのである。
そもそも漢詩と哲学の素養をベースにエッセイや現代詩や翻訳の仕事をさらりとこなす小津は、俳人である以前に「ほんとうの物書き」なのである。小津夜景という真に良質なライターの登場は、結社システムの継承や賞レースの形式化によってガラパゴス化した俳句界の異常性を認識させるのに十分であった。
もちろん主宰を中心とした同質な共同体を維持しつつすぐれた俳人を輩出するメソッドとしての結社制度には、論理的に納得のいく部分も多い。が、ともすれば共依存に陥りかねない危うさを孕んだ関係性に依拠することなく、自分の意志で作品について探求できる俳人でありたいと思うようになった転換点のひとつとして、『フラワーズ・カンフー』との出会いがあることは間違いない。
春や鳴る夜汽車シリングシリングと
夏はあるかつてあつたといふごとく
もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し
それにしても多彩な句群である。写生や二物衝撃といった飛躍の論理には俳句らしさを感じるものの、言葉どうしの軽やかな縫い目がその手癖をベールのように隠してしまう。俳人たちが洞穴で時間をかけて練り上げてきた手法を一瞬で会得した小津は、それをあざやかに外界へ引き出してみせたのである。
句集評という観点でもう一つ話したいのは、海や水母といった水にまつわるモチーフの多さである。
くらげらの声をひかりは書きしるす
ふるき世のみづにも触るるミトンあれ
怪奇船グラジオラスを素通りす
誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ
片肺はこほれるうみに透かし彫る
くらげみな廃墟とならむ夢のあと
それぞれの句は別個の事象を描きつつも、頻繁に配置されることで徐々に「水そのもの」の写生の様相を呈する。小津は水と出会うたびに、水が水として世界に存在する理由・意味・過程・行く末のすべてを、一から問いかけ直す。その手続きの最中、小津はまさしく「もはや私ではない愉悦そのもの」となっているのである。
かくして私は強烈な印象と影響を『フラワーズ・カンフー』及び小津夜景から受けたわけだが、その要因の一つは小津のセルフプロデュース力にあろうと邪推する。 素性を明かし尽くさず、突如として俳句界に出現し、時折表に顔を覗かせたかと思えばそのたびに激しい光を放って読者の目を眩ます。意図的か否かに関わらず作り上げられた「ミステリアスな小津夜景」のイメージに人は焦らされ、小津作品を読まずにはいられなくなっていくのである。
先日荻窪の俳句バル「鱗」を訪れた際、隣席から小津の名前が聴こえた。訊けば、彼らの空けているボトルに描かれたイラストは帰国時に小津が残したものであるとのことだった。イラストとサインの入ったボトルが、小津の残像と共に蓄光しているように見えた。
小津はいつも私に、印象だけを残していく。もはや小津の存在という印象が私の中で勝手に光を強めているのかもしれない。小津夜景という光に”あてられて”からしばらくの時間が経ったが、どうやらまだ治まりそうにない。