私の極愛句集(4)
木製バットの製造は乾燥から
―『あおだもの木』小倉喜郎
藤田 俊
実は句集をあまり読んでいない。俳句の勉強や気になる作家を追う作業はいつでもできると音楽や小説、マンガ、映画等別のものにかまけて疎かにしてしまっている。気がつくと優先して追っている音楽では、配信サービスの影響か一作家の曲をアルバム単位で聴くことがめっきり減った。曲単位、もしくはそれを集めたプレイリストで聴くことが増えた。
一方俳句は元々形式上一句としての力が連作や句集としてまとまった時の力よりも大きいと感じることもあって、一句単独で読むことが多い。最短の詩型である俳句の一句一句は無時間芸術というか他の芸術形態に比べて圧倒的に鑑賞に要する時間が少ない。一句の中で表現される時間経過も概して短い。それが特徴なのにたくさんの句が集まったものを読むと時間を要する。俳句としての魅力を減じている気がしてならない。句集も一人の作家の作品をまとめて読めるという資料的価値が強いと思う。純粋に楽しむのであればその時々で当季の句を拾い読みしたり、ぱっと開いたページの句を読んだりというのが最適という気がしている。
というわけで「俳句は作家読みではなく作品読みが楽しい」にとどまっている私だが、当然俳句を続けていると好きな作家ができる。正直に告白すると私は「小倉喜郎になりたいボーイ」である時期が長くあった。第一句集『急がねば』が好きだと思い込んでいたが、改めて読み直すと第二句集『あおだもの木』の方が好きだと気づいた。『急がねば』は小倉さんの句で一番好きな「空梅雨や向き合っているパイプ椅子」が入っていることが大きいが、全体で見れば『あおだもの木』の方が好きな句が多い。
作り手として嫉妬する句、自分が作ったことにしたい句、いつか越えたいと思う句を挙げる。
向かいの家に梯子が掛かる桜鯛
青空に足場が組まれよもぎ餅
セーターの男かまぼこ切っている
鬼胡桃卓球台に日が当る
ボクサーの部屋の天体望遠鏡
急速にアスパラガスとなる二人
ホテルから高速が見え西鶴忌
鵙日和コード跨いで焼香へ
構造としては空梅雨の句に似ているものが多い。うろ覚えだが小倉さんの作風を無機物による劇のようだと評しているものを見たことがあるが、まさに小倉印の句である。無機物等都会的、工業的なものを使うことが多い。「感動しない」、「情感が乏しい」ということを言われることも多いだろうが、このあたりにも一因があるのかもしれない。確かに乾いた句、雰囲気のある言葉、雰囲気に凭れかかったような言葉を使わない句が多い。感情に酔っていないし酔わせない、感傷に濡れていない。「詠む」という動詞がどうにも似合わない「作る」、「捻る」俳人、それが小倉さんだ。
それは俳句に湿り気を求めない私にとっては勇気をくれる。まるで坂本慎太郎の音楽のようだ。共感や、感動という読み手の中に既に存在するツボ、ボタンを前提としたもの、あるいは幻想としての強固なプロットをより強固にするものとは別の良さもあるはずだ。前述した嫉妬する句には一読して「くわぁ」と唸らせるかっこ良さのようなものがある。断片的なモノ、瞬間をただただ置いているような潔さがある。一種のエンターテイナーではあるが、コピーライター的なものとは無縁だ。小倉さん的エンターテイメント句を挙げてみる。
おっ、雷、君の眉毛は太すぎる
言い訳にポッと吐き出す海月かな
大き目の嘴の鳥お正月
古池に蛙飛び込むお尻から
湯冷めして思い出せない本能寺
うっかりと薄氷を割るウルトラマン
自動ドアに挟まれている春の鬼
アロハシャツ着てゆで卵剝いている
眠れなくて鈴木六林男を考える
またこの句集には中八の句が多い。助詞の複数使いという特徴も相まって、気持ち六八六くらいのゆったりとしたリズムで読んでいるような心持ちがしてくる。
実験は失敗また春大根を炊く
梟が帽子を探しているらしい
春疾風コインロッカーに空きがない
天日干しの公房全集草紅葉
エレベータで黒人にわたすニット帽
一月の水洗トイレの造花かな
家族の呼称を家族的情緒と切り離して使うというのも別の小倉さん印と言える。
如月の父少しずつ鶏に
山眠る母と娘のハイタッチ
竹藪に父の自転車置いてくる
筍をお父さんと呼んでみる
また、この句集の最後の方には東日本大震災とそれに伴う津波、原発事故を受けた句が収められていることも触れておくべきだろう。
そんな小倉さんの俳句に対する考え方を、月一回私の地元宝塚のラジオ番組で聴くことができる。
『あおだもの木』の中で個人的に一番小倉さんの肉声が聞こえてくる句を挙げて締めたい。
簡単なマジック覚え秋日和