関西現代俳句協会

■2022年7月 青年部連載エッセイ

私の極愛句集(3)
脳にきてる句集   ―『点滅』榮猿丸

野住朋可

 持っている句集の半分くらいは葉ね文庫で購入したものだ。毎回オリジナルのブックカバーを付けてもらい、家の本棚を探す際はカバーの色の記憶を頼りにする。榮猿丸『点滅』(ふらんす堂、2013年)は通い始めの頃に購入した、ピンクのカバーの一冊だ。うちでは古参の句集で、それを証するように背表紙部分がだいぶ変色している。

 ときめく句集やワクワクする句集はたくさんあるが、『点滅』は読んでいるとなぜか落ち着く句集である。自分の句が変にソワソワと空回りしている時、助けを求めるように手に取る。

    ビニル傘ビニル失せたり春の浜
    炎天のビールケースにバット挿す
    監視カメラ毎秒一コマ花散るのみ

 渋くて、浮かれたところがない。人間の存在感がほとんど無くて、無機質な雰囲気だ。表現に嫌な屈折がないためか定型と言葉がぴったり調和していて、無駄がない。

    子ども来て絵本くべたる焚火かな
    竹馬に乗りたる父や何処まで行く
    先生が奥さんとゐて冬休

 人間が登場しても、生々しい表情は見せてくれない。登場人物への共感や理解を求めていない、この距離感が心地よい。

    君すでに寝巻ぞ秋の夕べなる
    君抱きつつ流れをるプールかな
    わが手よりつめたき手なりかなしめる

 恋愛らしき句も多いが、描き方がドライで嫌な感じがしない。ある日突然、別に恋愛として読まなくてもいいのだと気が付いて衝撃を受けた。寝巻の君は年の近い兄弟でもいいし、一緒にプールを流れるのは自分の子でもいい。読みにおいて恋愛を強制されないのは、私にとってはとても心地よいことだ。

    麦酒酌む呼べばかならず来る友と
    出鱈目ぞ焼酎の嵩水の嵩
    ジンライムくれ着ぶくれの肩越しに
    年忘靴下半分脱ぐ男

 酒の句も酒飲みの句も良い。複雑な味わいや上等さにはあまり興味がなくて、普通の瓶ビールやどこの店にもある焼酎、そういうのでいい。こだわりは人を疲弊させる。それよりもなんやかんや言いつつ絶対来る友人や、肩越しにグラスが回ってくるような密度の濃い店の方が重要だ。 気が付けば意外と長い間『点滅』の沼にはまっている。好きとか良いという感覚を超えて、私の脳に変な格好で貼りついてしまったような句もいくつかある。

    みのはちのすせんまいぎあら春愁

 愁とは無縁な性格だが、春になると頻繁に「みのはちのすせんまいぎあら」と心に思い浮かぶ。あまり意味は出てこない。おまじないのようなノリで、ふと唱えているのだ。

    ダンススクール西日の窓に一字づつ

 例えば信号待ちをしている時、なんとなく雑居ビルを眺めると窓に大きく文字が貼ってあったりする。別にダンススクールとあるわけではないし、なんなら西日の時間帯でもない。でもぽろんと「西日の窓に一字づつ」だなと思ってしまう。こうした脳への作用に、俳句の力の偉大さを思う。一瞬で、現実世界と詩の世界を繋ぐことができるのだ。

 しかし、ここまでくると鑑賞もへったくれもない。はまるにしても、我ながら大分重症だ。でもこれからも、この一冊に度々救われていくのだという妙な確信がある。私にとっては、まさに極愛句集なのである。

 

私の極愛句集(3)脳にきてる句集

野住朋可
関西現代俳句協会青年部・「奎」編集長

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