関西現代俳句協会

■2022年6月 青年部連載エッセイ

私の極愛句集(2)
『火づくり』― 異形の句集 ―   

堺谷真人

 私が師事した堀葦男(1916-1993)の第一句集『火づくり』は1962年12月1日の発行。発行所は「十七音詩の会」である。
 内容は編年体の四部構成。初学から20年余に亘る作品を収録する。
 ・「風の章」 1941年から1948年まで。126句。
 ・「水の章」 1949年から1952年まで。185句。
 ・「地の章」 1952年から1956年まで。179句。
 ・「火の章」 1956年から1962年まで。347句。

 葦男は昭和30年代を中心に関西の社会性俳句、前衛俳句を牽引した俳人の一人。『火づくり』上梓の年の4月には金子兜太らと「海程」を創刊、11月には第十回現代俳句協会賞を受賞している。当時46歳。論作ともに文字どおり脂の乗り切った時期であった。

 前衛作家としての葦男といえば、やはり抽象絵画を思わせる次の句が最も人口に膾炙しているかもしれない。

    ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒

 先を争うように殺到するモノクロームの群れ。運動エネルギーそれ自体を抽象の筆致でとらえたかのようなこの句は、昭和30年代前衛俳句の極北に位置する作例かもしれない。

 だが、『火づくり』の後半、「火の章」の中で目につくのは、むしろ資本主義や現代社会に対する内在的観察と文明批評的構えである。映像的ともいえる形象性への偏愛である。

    動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間
    夜は墓の青さで部長課長の椅子
    ずんずん米の磨ぎ汁銀行の掘る穴へ
    見えない階段見える肝臓印鑑滲む
    ある日全課員白い耳栓こちら向きに
    沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し
    陰画学級透し視れば革命前の鏖死
    箱のような俺 中流で回転する

 葦男は大阪商船を経て関西経済の中核である糸へん=繊維業界で活躍した実務家であった。ビジネスの世界の只中に身を置きながら、いわば同時代の「参与観察者」として上記のような俳句を詠んだのである。

 一方、『火づくり』の導入部、「風の章」にはこのような作品が並ぶ。

    をちかたに紀州は青く畔を焼く
    あるときは白くさわだち野の新樹
    萩うつる玻璃ぬちに妻のこし出づ
    背負ふ鉄帽がつと触れ合ひ少女なり
    熟睡子(うまゐご)よ沖には春の白帆満ち
    身をどつと埋めたしつつじ咲き溢る
    花さびしければ群れ咲きゆきのした
    タックルを振り切り駆けり戦死せり

 時代の必然として戦争の影はある。しかし、ここには全身で自然を感受する開放性、健康的なリリシズムなどがより顕著に見受けられる。そして恐らくこれこそが俳人葦男の原質なのだ。

 俳句という詩型の更新を志し、論作並行で同時代のアクチュアリティと切り結んだ葦男は、『火づくり』の作品を到達点とは考えていなかった。それは作業仮説のようなものであり、1962年時点での、あるいは1962年までの自己の俳句のレビューであった。

全体のハーモニイを考えれば、初期作品は全部切り捨てたくもあるが、私の現在よりも過去を愛惜される読者もあるので、過度に現在偏重に陥らないように留意した。(「あとがき」)

 上記のような述懐は一種の韜晦であろう。葦男が初期作品を割愛しなかったのは決して読者サービスなどではなく、自己の俳句に関するより完全な理解のために基礎データを保全するという気持ちが強かったからではないだろうか。  その傍証となるのが「あとがき」と「略年譜」の間にある「主要著作目録」である。1947年から1962年にかけて発表された論考、句群など約60編の文献が発表媒体、時期とともに列挙されている。世間一般の句集の体例にはおよそ馴染まない、異形の句集といえよう。

本集においては、宣言めいた言葉や解説は一切掲げないで、生のままの作品をぢかに読者に読んで頂きたいと思う。(「あとがき」)

 こう書いた2ページあとには「主要著作目録」が割り込んで来るのだ。なんと往生際の悪いことであろうか。しかし、私はそんな往生際の悪さも含め、葦男俳句の美点・欠点を余すところなく包含する異形の句集『火づくり』の豊饒と未完成を寿ぎたいと思うのである。昭和30年代俳壇の熱気を回顧しつつ。

 

私の極愛句集(2)『火づくり』― 異形の句集 ―

堺谷真人
1963年、大阪生まれ。「豈」「一粒」同人。

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