関西現代俳句協会

■2021年12月 青年部連載エッセイ

隣の(詩歌句)(5)

MARGINAL IMAGE LIMITED
   ~時代はもう現代詩PART2

橘 上


 関西現代俳句協会青年部の皆さんコンバンワ。ポエム第3万78世代のクズ詩人、橘上です。
 クズ詩人のワタクシですが皆様にクズエピソードをお伝えするつもりはありません。じゃあなんでクズ詩人かというと、いやね、皆さんも今すぐクズ俳人を名乗った方がいいですよ。だってね、胸に手を当てて、1度たりとも過ちを犯したことがないと言える人なんて、ほとんどいないわけですよ。さらに「無自覚の暴力」とかも含めたら全員有罪ですよ、基本的に。
 だから、「好感度俳人」とか、「人を傷つけない俳句」とかの人はホント危ないですよ。今すぐクズ俳人に転職した方がいい。っと僕が書きたいのはこんなことじゃなかった。別に書かなくてもいいようなことほど筆が進むよねって孔子が言ってたっけ?老子?荘子?それとも虚子だっけ?誰でもいいし誰も言ってなくてもいいわ。
 んで本題。え?はたしてこの世に本題というものがあるのか疑わしいって?まぁそんなこと言い出したら今ここに自分がいるのかも怪しいし。証明するより先に賭けるしかないでしょ、自分がいるということに。賭けるから書ける。じゃあ、ひとまず便宜上の本題ね

美大では長渕剛を好きと言っては生きていけない

 2017年。ドナルド・トランプ大統領が誕生し
 2021年。ドナルド・トランプが退陣し, ジョー・バイデンが大統領に就任した。
 その間の今から数年前、わたしはあるアーティストのパーティーに行った。
 排外主義の象徴とも言われていたトランプに対しての反発なのか,世界的な潮流への反応なのか、会場では多様性についての議論が始まっていた。遅れて会場についた私は,しばらく議論を見守っていた。すると,議論の中にいた一人が私に何をしている人かと尋ねてきた。
 詩を書いている、と答えると、怪訝な目で私を見つめ「詩?」と聞き返していた。さっきまで寛容や多様性で盛り上がっていたのがウソのように座は白けてしまい,たまにつぶやかれる言葉がむなしく響く中,誰かが言った「美大では長渕剛を好きとは生きていけない」といった言葉が強く印象に残った。

 「現代美術と現代詩の枠組みすら超えられない奴が」
 「人種や宗教の壁超えようって作品つくってやがる」
 「できるわけねぇだろ。やる気がねぇんだから」
 「想像してごらん、現代美術も現代詩も現代俳句も現代川柳も存在しない世界を」
 「ほとんど多くの人がそれと関係ない生活してるぞ」

自由と叫ぶのは自由だ。しかし自由なんて本当に求めているか?

 自由と断絶。断絶の結果としての自由なのか、自由を求めた結果の断絶なのか。今では昨日のテレビ番組でクラス中が盛り上がる,ということもほとんどないだろう。共通の話題を失う変わりに、各々趣味の合う人と話し合うようになった。話が合わないやつとは交流もないから摩擦もない。摩擦がないからノーストレス。そして震災やコロナや大事件などが時折現れ「時代の象徴」として消費され,なれない議論を始めるも、趣味の違う人との会話はなれず、結局趣味の合う人同士で,趣味の合わない集団を余所者のとして叩き始める。

 「ジャンルを越境した作品ってよく言うけど」
 「せいぜい詩と美術とか小説と映画とかダンスと演劇とか」
 「芸術の範囲の中での越境だろ?」
 「越境の範囲を限定して、越境している」
 「予め、決られた越境」
 「MARGINAL IMAGE LIMITED」
 
 「何故詩とラーメン、俳句と下水道、短歌と税金、ダンスとカブトムシの壁を越境しないのか?」

 そもそも全ての芸術を追うのは不可能。だから生活に見向きもしない。だから、専門外のアートは見ない。映画に比べたら演劇はダメだだの、コントは演劇より低俗だだの、詩なんて現代において重要じゃないなどと専門間のマウントを取り合う。そいつらが叫ぶ。愛だ,自由だ、多様性だ、と。芸術なんてそもそも排他的である。それを好む自称リベラルがトランプを批判したって足元をすくわれるだけだ。実際、すくわれた。トランプ大統領の誕生だ。

 「ドナルド・トランプも習近平も大好き!」
 「バイデンは?」
 「嫌いじゃないかも~」
 「博愛主義者~」
 「自由か平等か。それが問題だ」
 「どっちも必要」
 「二兎追う者は一兎も得ず」
 「大谷翔平知らんのか?」

 趣味の問題

 「美大では長渕剛を好きと言ってはいけない」
 「ラーメン次郎ではアメリを好きと言ってはいけない」
 「職場ではポエムを書いていると言ってはいけない」
 「ラウンジカフェでは阪神タイガースの話をしてはいけない」

 そもそも芸術なんて趣味の問題だ。そうじゃないといったところで,嫌いなものは嫌い出し、好きなものは好き,それ以外の評価軸なんてせいぜい「言語化しやすい素晴らしさ」ぐらいだ。他者が言語化しやすいような作品を作る,あるいは自作のすばらしさを言語化する能力がアーティストの才能として持て囃される。しかし、現実の問題の多くは言語化できないはずだ。

 「言語化できないものを言語化する。」
 
 「この矛盾を生きている言葉,それが詩だ」
 
 「その矛盾が」
 「黒か白かで割り切れない曖昧さを引き受け」
 「価値観が合わないものを袋叩きにする社会の分断に向き合うことだ」
 「現在に生きてる人は全て」
 「その矛盾からは逃れられない」
 「時代はもう現代詩」

 意味が分かりにくい。形式がむちゃくちゃ。起承転結がはっきりしてない。頭よさそう。頭悪そう。頭普通そう。現代詩には様々な苦情が寄せられる。しかしそんな意見を呼び起こすのは、詩が言語化できないものを言語化しようとしているからだ。
 とはいえ,そんなものを読まされるのは苦痛で仕方がない。だから私は現代詩らしい現代詩なんて書きたくない。わからないけどおもしろい。おもしろいけど単純じゃない。そんな多層性を持つ作品を作ろうと思ってる。

 「で?こんな偉そうなこと言ってるけど、」
 「お前は社会の分断に加担しなかったの?」

 「してんじゃねぇの?クズ詩人だからよ」

 「その矛盾を生きることこそが…(以下略)」

            

FIN

  

※この作品は現代詩手帖2020年11月号掲載の橘上の詩「時代はもう現代詩(NOシャブ NO LIFE EDIT)」のエッセイバージョン,のようなものです。

◆隣の◇(詩歌句)(5)
MARGINAL IMAGE LIMITED~時代はもう現代詩PART2◆

橘上(たちばな・じょう)
詩集『複雑骨折』(2007年)『YES(or YES)』(2011年)『うみのはなし』(2016年)。
2017年より一人で60分間即興朗読をする「NO TEXT」を開始。そこで生まれた詩を基に、橘上・山田亮太が新作詩集を、劇作家の松村翔子が新作戯曲を書き下ろす書籍『TEXT BY NO TEXT』が2022年秋頃発売予定。

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