隣の◇(詩歌句)(4)
自由律俳句という容器
木曜何某
DMが来た。自由律俳句の活動についての軽いエッセイを書いて欲しいという。
確かに私は同人で句集を3冊出しているが、何かの結社に所属しているわけでもなく、何かの賞に出したこともない。自由律俳句の履歴書、真っ白なんですけど、それでもいいんですかと尋ねると、それでも良いという。
なるほど、これは詐欺だ。エッセイ書け書け詐欺。
本当は「関西現代俳句協会青年部」なんてのも存在しないのだろう。提示されたURLをおそるおそるクリックする。すると、「パソコンがハッキングされたのでここに電話してください」というポップアップもなく、しっかりとしたサイトが表示され、そこには知り合いのエッセイも載っていた。
こうなってくると訳が分からない。いったい私に何をしろというのだ。
自由律俳句を始めたのは2012年の秋。ツイッターを始めた私は興味を持ち始めていた「短歌」や「自由律俳句」で検索をかけた。
そこで見つけたのが『スゴつぶ』というNHKのラジオ番組。ツイッターからハッシュタグをつけて自由律俳句を投稿すると番組内で紹介されるというものだった。
ラジオ番組自体は不定期かつ地方限定の放送だったので、私自身は放送を聞くことはできなかったのだが、ツイッターの公式アカウントではタイムライン句会というものが行われていて、私はそれに参加していた。
タイムライン句会とは、本放送と同じようにハッシュタグをつけて自由律俳句を投稿し、いいね(当時はまだ「お気に入り」「ファボ」だった)やリツイートの数に応じてその日の優秀作品(グランプリ)が選ばれるというもの。
私も「悲しみという字、蝶みたいだ飛んで行け」という句でグランプリに、「嫌いな奴が気さくで困る」「エンドロールまで観る人を好きになる」という句でダブルグランプリ(同率1位のどちらもが私の作品だった)に選ばれたことがある。賞品はどーもくんの形をした冷蔵庫だったので、我が家には茶色い冷蔵庫が3台あるのだ。まあそんなわけないのだが。毎回、50名くらいの人が投稿していたように思う。
2013年の夏、番組の最終回が全国放送され、私が初めて聴くスゴつぶは最後のスゴつぶになってしまった。幸運なことに私の「ごめんの顔が重すぎる」という句がピース又吉賞に選ばれた。商品として等身大のピース綾部像を頂いたのだが、屋根裏に置いていたためか熱で顔の部分が変形してしまった。まあそんなわけないのだが。
スゴつぶが終了し、少しの間、スゴつぶで知り合った人のネット句会に参加したりもしていたが、それも活動がなくなったりで参加しなくなり、どこかに投稿するということもなくなった。
それからは、それまでの自由律俳句をまとめたものをコピー用紙に印刷して人に売りつけたり、新たに作った自由律俳句を印刷所に印刷させて人に売りつけたりして今に至る。
この文章を読んでいる人は俳句を作っている方が多いと思うが、私は俳句を全くやっていない。
私は5年ほど前に「俳句は写真が発明された時点で役目を終えている」などと暴論を吐いていた。今は深く反省している。
私は短歌もやっているのだが「短歌は動画やその編集技術が発明された時点で役目を終えている」などと言われたらどう思うか。
うーん、確かにそうかもなあと頷いてしまうかも。頷いてしまうんかい。こんなことを言っていたら私は多くの人から叱られてしまう。いけない、自由律俳句の話に戻ろう。俳句でも短歌でもなく、自由律俳句を作るということは何の意味があるのだろうか。
「文学過ぎる戯言か お題のない大喜利か」
せきしろさんとピースの又吉さんの自由律俳句集『カキフライがないなら来なかった』の帯に書いてある言葉である。たしかに、私は自由律俳句をお題のない大喜利として捉えているかもしれない。自由律俳句はもともと、もっと俳句に近いものだと聞いているが、私の作る自由律俳句はせきしろさんや又吉さんの作るものに近い。
私は大喜利もやっている。ここでいう大喜利というのはいわゆるフリップ大喜利。
テレビ番組「IPPONグランプリ」のように、一つのお題に対してフリップに回答を書いて発表するというものだ。
「忍者が経営しているハンバーガーショップ、どんなの?」
「店員のくわえている巻物を引っ張るとメニューになっている」
面白いかどうかはともかく、こういうやつだ。その大喜利にはアマチュアが参加できるものや、アマチュアが主催しているイベント、大会も数多くあり、インターネット上で行われるネット大喜利というものもある。現在、私はネット大喜利のチーム戦に参加しているのだが、その参加者数は700名ほど。アマチュアが大喜利をするという界隈は確かに存在するのだ。
大喜利にはお題があり、それに対し面白い回答を考えて出す。自由律俳句はそのお題が無い、というよりはお題は自由であり、何を回答してもいい。
大喜利は見る人を笑わせることを大きな目的とするが、自由律俳句は笑わせることを目的としているわけではない。もちろん面白い句も作るわけだが、目的は何でもよいのだ。
私は、大喜利の回答では出せない、しかし、捨てるわけにはいかないものを自由律俳句と題して発表しているのかもしれない。大喜利から零れ落ちたものを掬い取っているのが自由律俳句なのだ。
(やや、貴様、先ほど短歌も作ると言っていたな。なら自由律俳句ではなく短歌で零れ落ちたものを掬い取ればよいではないのか。)
え、誰? 確かに、短歌がその役目を果たせる場合もある。しかし、短歌は31音と音数が多い。多くの情報を入れられる反面、その中で話を展開させなければいけない場合がある。
そこそこの量がある液体ならちょうどいいが、小さな雫では別のものを注ぎ足さないといけないのだ。ヤクルトを短歌という水筒に入れるわけにはいかないのだ。ヤクルトは1本飲むと少し物足りないが、2本飲むと必ず満足を通り越して過多という感情になってしまう。自分から買うことはなかなかないが、実家の冷蔵庫にあると少しうれしい。飲むときに蓋を途中までしか剥がさない人を私はなんとなく信用できなかったが、最近はめくった蓋が煩わしいことに気付き、蓋を途中までしか剥がさない側の人間になってしまった。私はどうしてヤクルトの話をしているんだ。
「剥がした蓋に突風」(今、急いで作った句)11音。このように俳句でも音数が余る場合がある。
大喜利から零れ落ち、短歌では大きすぎるものを掬い取るため。自由律俳句を作る理由はそんなところだろうか。もちろん、自由律俳句をお題に合うように作り替えて大喜利の回答にしたり、短歌の一部として自由律俳句を用いたりもしている。
(例)
自由律俳句「剥がした蓋に突風」
短歌「日光が届かぬ程の谷底で舞い続けてるヤクルトのふた」
大喜利 「(お題)この宇宙人、地球を侵略する気ないなと思った理由」
「(回答)飛んでいったヤクルトのふたを追いかけて拾っている」
面白いかはさておき、自由律俳句はとても便利なのだ。
そういえば、私は短歌のこともお題のない大喜利として捉えているところがある。
大喜利の回答のようなものを思いついてしまった場合、調度良い大きさの容器として短歌を使っていることがある。
短歌は大喜利ではないと言われてしまうかもしれないが、ヤクルトの容器と水筒以外のものが見つかるまでは、これを使うことを許してほしい。
まあ、見つかっても使うんですけども。