隣の◇(詩歌句)(2)
自分の内面を見つめること
/自分の外側の世界を見直すこと
なべとびすこ
3月まで放送されていた「俺の家の話」というドラマが名作だった。ドラマの話だけでこの原稿を終えてしまいたいくらい面白かったのだが、ストーリーに触れずに短歌と俳句の話をしようと思う。
元プロレスラーで能楽師の主人公のこんな台詞があった。
「みなさんが能だと思ってるの、だいたい狂言だから」
主人公の息子の先生が能をよく知らず、「そろりそろり」など、テレビなどで部分的にフューチャーされる「狂言」の知識で会話をしたときの台詞だ。私は短歌をやっているが、同じような気持ちになったことは多々ある。
私が「短歌をやってます」と言ったときの返答はこんな感じだ。
「ここで一句!」「プレバト見てます!」「季語を使うんですよね?」「5・7・5のやつね!」「お~いお茶の裏に書いてるやつ」
わからないなりに話を合わせようとしてくれているのだろう。しかし、間違ったまま受け入れるわけにもいかず、そう言われるたびに「それは俳句で、私がやってる短歌は5・7・5・7・7で季語も要らないんですよ~」と伝えている。今後はドラマのように「みなさんが短歌だと思ってるの、だいたい俳句だから」と言っても良いのかもしれない。
そして「俳句と短歌はどう違うんですか?」と言われることもある。そのときは上記のように5・7・5と5・7・5・7・7でリズムが違うこと、季語のあるなしなどを話した。
しかし、「どうして俳句じゃなくて短歌を選んだんですか?」と聞かれると困ってしまった。私は別に、目の前に「短歌」と「俳句」があって、その2つから短歌を選んだわけではない。
好きな雑誌の連載にたまたま短歌の投稿欄があって、その選者である歌人が書いていたエッセイが好きになって、そのうえ好きなミュージシャンがグッズとして歌集を出していた。そんな偶然の積み重ねで短歌を選んだだけだ。たまたま私の通り道にあったのが短歌だった。そして、奇跡的に短歌は私に合っていたのだと思う。
しかし、あまりにも俳句についての説明を求められるため、俳句に挑戦したことがある。俳人2人、歌人2人の計4人で天王寺動物園で吟行をした。
※この様子は私が運営している「TANKANESS」という短歌のwebメディア「歌人&俳人コラボ吟行~天王寺動物園 歌会&句会」としてレポートを書いた。
動物園をみんなで見て周ってから、短歌2首と俳句3句を作り、最後に歌会&句会を行い合評するというものだ。歌人も俳句を作り、俳人も短歌を作る。この日、初めて俳句をつくった。
この日はとても楽しく、同じメンバーで短歌&俳句吟行は何度か続いた。新型コロナウイルスが流行して以降は開催していないが、またやりたいと思っている。楽しかったのも事実だが、俳句を作るのは本当に難しかった。
単純に短歌の31文字に比べて、俳句の17文字はとても短く感じた。短いなかで季語を入れなければならない。
また、2つのものを組み合わせる「取り合わせ」は、短歌でも必要な技術だが、短いなかに2つのものをうまく組み込んだうえで「景」を見せなければいけない。
だからこそ、俳句は「切れ」が大切だと教えてもらった。1つのものを見せて、「切れ」を入れて、もうひとつの世界を見せる。短歌以上に俳句のほうが「演出」の要素が大きいような気がした。
俳句は短歌に比べて、自分の内面を書く余白が少ない(余白が少ないからこそ、何年か後に見直しても恥ずかしくない、という意見も聞いて納得もした)。
私は昔からずっと、自分の内面と向き合ってきた。短歌を始める前から、大学で心理学を学んだりカウンセリングや催眠療法に行ったり、内面的なことを友達と話したりしてきた。
そのため、短歌にも内省的な要素を強く詠んできたと思う。自分の醜い内面を言語化して短歌として消化するのが、私の短歌との向き合い方だった。だから、吟行のように外の世界を見て短歌を詠んでも、それに触発された内面が色濃く出てしまう。
しかし、少し体験した結果、俳句はもっと外向きのものだと感じた。歳時記から季語を選ぶのもその1つだ。普段自分が使わない言葉でも、歳時記のなかにある言葉を選んで良い。
俳句を作るのが難しいと感じたのは、私が今まで外の世界を雑に見てきたからだと思う。そしてその自分の雑な視線を思い知らされるからだ。
吟行のなかで、動物や花や食材、天気など、さまざまなものが季語だと教えてもらった。私はそういった自分の外にあるものを、人生の中で軽んじてきたのかもしれない。
吟行に行けなくなり、そのあとは俳句を詠んでいない。昨年の夏、カメラを買った。桜や紫陽花、紅葉、いちょう並木、イルミネーション、雪など、わかりやすいものだけでも、季節ごとにいろんな被写体がある。
これまで、私にとっての四季は、春は花粉症と自律神経の乱れ、夏は夏バテと熱中症と夏の花粉症、秋は秋の花粉症、冬は乾燥など、自分の体調に悪影響を与えるものだった。季節を憎んでいた私が季語を見つけて俳句を詠むのを難しいと感じたのも必然だ。
しかし、カメラを買ってから、被写体をどういう角度で、何と取り合わせて、どんな色で、どんな明るさで撮影するのか。外の世界をどう切り取って演出するのか、という点で、写真と俳句は似ている気がする。カメラを買う前も、俳句と写真の類似性について聞いたことはあったが、もっと体感として理解できた気がする。
そして、カメラを買って一年経った今の自分なら、前よりは俳句も詠めるような気がする。
そんなことを言いながらも、たぶんこれからも、私が好きなのは短歌だ。日常的に詠むのも、読むのも短歌が中心のままだろう。
しかし、写真や俳句を通じて、外の世界をちゃんと見ることは、自分の内面ばかり見てきた私の人生にとって、とても大切なことなのだと思う。写真を撮って俳句を詠むことは、きっと私の短歌にも良い影響を与えてくれるだろう。
俳句をやっている人も、機会があれば短歌をやってみてほしい。苦手だとか、難しいと感じたなら、それはなぜなのか考えることで、俳句に活きる何かがあれば嬉しい。