俳句×博物館めぐり(5)
野風呂記念館
野風呂記念館 図書部長 髙木晶子
野風呂記念館は、平成9年4月に開館しました。
俳人 鈴鹿野風呂の生家跡に、2代目「京鹿子」主宰 丸山海道の資産と京鹿子会員の拠金を以て建設されました。
昭和46年に野風呂が逝去し、その後夫人の静枝も亡くなり、200年を経た生家はかなり荒廃したため、創始者である鈴鹿野風呂の功績を顕彰し、併せて俳句界の隆盛を図るとともに、地域文化活動にも貢献することを目的に建設されました。
そこでは「京鹿子」の編集や事務、句会なども行われています。近くには京都大学、節分で有名な吉田神社もあります。
鈴鹿家は父祖代々吉田神社の社家で、附近には鈴鹿姓の家が沢山あります。
この会館を建設したのには、野風呂が古俳諧の研究者で、1万冊と云われるほどの蔵書を所蔵しており、これらの書物を整備し、将来一般にも閲覧可能にしたいとの思いがありました。
玄関付近は、出来るだけ旧鈴鹿家の雰囲気を残し、野風呂が特に愛した黒松が大切に残されました。会館は鉄筋2階建て、1階は、事務室、句会場2室、和室、2階には、句会場2室と図書室があります。地階は、常設展示室となっています。
鈴鹿野風呂について
鈴鹿野風呂、本名登。明治20年~昭和46年(1887-1971)京都帝国大学国文科卒。鹿児島川内中学に赴任。当時学生を連れて紫尾山に行った時、ドラム缶で風呂を焚き、そのとき大変愉快であったので、俳号を野風呂と決めた。本名をもじった俳号が流行っていたこともある。のぼる→のぶろ。ちなみに高濱虚子は本名清。
この中学に、佐藤放也がおり、そこで俳句会があり、それまで古俳諧や俳人伝の研究をしていたが、俳句はあまり作っていなかったという。そこで「ホトトギス」に投句して大正9年、「ホトトギス」に初入選。
その年、京大へ呼び戻され、京大国文副手、大日本武道専門学校の国文教授になり、そこでも俳句を教え、第二次大戦の後、武道専門学校は、文化専門学校と改称され、野風呂は校長となり、進駐軍により解散され、最後の校長となった。
教え子は全国にまたがり、各地で俳句会を起こした。野風呂の京大での師藤井紫影は、野風呂を自分の跡継ぎとしていたが、後述する事情で穎原退蔵氏を推薦して俳句に専念することになりました。
京大三高には、すでに神陵俳句会があり、日野草城は、「ホトトギス」で清新な俳句を発表し、虚子に嘱目されていました。
野風呂が京都に帰って来たと聞き、ある日訪ねて来た日野草城と初対面で意気投合し、京大三高俳句会の機関誌「京鹿子」を創刊する事となり、当初は、日野草城、田中王城、岩田紫雲郎、高濱赤子、中西基十と野風呂6名の同人誌でした。
五十嵐播水、山口誓子、などが次々参加し、東大俳句と相まって発展していたのですが、昭和7年、野風呂を主宰とする改革があり、昭和8年、平畑靜踏、藤後左右らが「京大俳句」を創刊して、ある者は去り、ある者は残り、ある者は両誌で活躍しました。
昭和7年「京鹿子」主宰となった野風呂は、以後句作、吟行、吟旅と全国へ足を伸ばし、旺盛な俳句活動に入ります。句集も数多く出版し、大矢数一夜吟を、新年、春、夏、秋、冬と行い、全て自筆で書きのこしました。 又1枚の料紙に1つの題で百句を書く『百句百幅一万句集』、『続百句百幅続々百句百幅二万句集』を出版、その後も百句軸を作り、330幅以上も作りました。それらは弟子の懇望によりつくられたもので、夫々の人達の所有となっていますから、全貌はつかめませんが、記念館には十数本程が残っています。
神麓居(野風呂宅)に訪ねて来た人には『水雲集』に署名を依頼、訪問の目的とか近況とか、自由に書いて貰い、全72冊。日付もあり、自筆である為に俳人の足跡の追跡になります。
ともかく、短冊や色紙に揮毫を求め、それらをすべて保存しました。 交遊もホトトギス俳人のみならず、井泉水、碧梧桐や禪寺洞など巾広く、学者、絵師、文化人とも交流しています。一茶のコレクターでも知られています。
主宰となった時から日記を書き、「野風呂俳諧日誌」2冊に昭和17年までが出版されています。その後亡くなるまで書き残しております。 その主旨は、『俳諧日誌』の序文に「国語国文の教室に居た頃、私はもともと作句よりも俳諧史殊に俳人伝研究に没頭して居たが、古俳人研究になかなか資料が見つからぬ。その頃のしばらくの日記でもあると研究の糸口があり大に助かる燭光を見出したのである。私のこの日誌が百年の後それらの役にいささかでも立つことを」と書いています。現在すでに百年を迎える今、貴重な存在といえます。
野風呂は84才で亡くなりましたが、俳句一筋の生涯でした。残した俳句は40万句とも云われ、作風は情緒的な作品から客観写生まで巾広く格調高く、国文学的要素を踏まえています。多くの子弟と家族的に接し、喜びも悲しみも共に寄り添う人生でありました。
俳誌「京鹿子」について
大正9年11月、京大三高俳句会の機関誌(同人制)6名の同人により発刊。
昭和7年、同人誌を廃止、鈴鹿野風呂を主宰とする。
昭和19年、戦争激化による俳誌統合令のため休刊。
昭和19年、「鹿笛」と合併し「比枝」発刊、高濱年尾と野風呂の2人選。
昭和21年、佐々木一水による「つぎねふ」創刊。野風呂選。
昭和23年1月、「京鹿子」復刊。京大を卒業した二男海道が編集を担当。
昭和47年、野風呂歿、丸山海道2代目主宰となる。
平成9年、野風呂記念館開館、
平成13年、丸山海道歿、豊田都峰、3代目主宰、
平成20年、11月、通巻1.000号、記念誌発行、
平成27年、豊田都峰急逝、4代目に野風呂の孫鈴鹿呂仁就任。
令和2年、百周年、記念誌発行
図書室蔵書について
図書室には、野風呂の古俳諧資料が700冊を越え、諸家の短冊7千枚、寄書多数、諸家の手紙、はがき、色紙など自筆のものが多く所蔵されています。
軸類は、神麓居で行われた節分の寄書、折々催された句会の寄書など、同席した画家の美しい絵が添えられたものが多くあります。勿論、各方面から寄せられた句集や研究書など、逐次追加しております。
又「ホトトギス」誌が昭和47年まで揃っています。
各種俳句雑誌も数多く所蔵。
野風呂が最後の校長を務めた武道専門学校の学生の課題として書き写した、武道の秘伝書800冊を自費で買い取り、閲覧に供しています。
前述の「續俳諧日誌」昭和19年1月1日からの解読作業を、現本が墨筆のため、現在、大阪城南女子短期大学教授の小林孔先生を始め、古俳諧の先生方と進めており、毎月の「京鹿子」誌上に連載しています。
第二次大戦の終末期から敗戦後の生活が詳しく書かれており、生活、学校、俳句など当時の世情は大変興味深いものです。
図書室の一般公開は、毎月第1、第3水曜日。10時~3時。入館料300円です。
★ここしばらくはコロナ禍のため休室しております。
野風呂記念館は、不定休。句会や研究会などのご利用可能ですが、事前にご連絡を。