生き物の生態と季語(5)
シギチ
クズウジュンイチ
バードウオッチングの世界では様々な略語が使われるが、中でもこの「シギチ」は相当メジャーだといえる。生息環境が似ていて同所的に見られることの多いシギとチドリの総称である。
シギやチドリは水辺に依存する鳥類で、干潟や湖沼、河川などで見ることができる。水辺での生活に適応して脚やくちばしが極端に長いなどの形状を備えているものが多く、バードウオッチャーからの人気が高いグループである。
角川大歳時記によると鴫(シギ)は秋の季語となっていて、傍題としてタシギ、アオシギ、ヤマシギ、ソリハシシギ、アカアシシギ、ツルシギ、イソシギ、クサシギ、ハマシギ、が立項されている。一方、千鳥(チドリ)は冬の季語とされ、傍題にはメダイチドリ、ダイゼン、ムナグロ、コチドリ、シロチドリ、イカルチドリが挙げられている。
これらの種類をすべて傍題として十把一絡げにするのはいささか乱暴であって、季節感の有無という点では疑問が残る。というのも、それらの見られる時期が地方によって異なるということがあり、またここに挙げられた種類によっても異なっているという問題もある。
例えばタシギ。角川大歳時記本文でも代表的なシギとして解説されているが、その代表種さえ、春と秋の渡りのシーズンのほか本州中部以南では越冬のためずっと滞在している。アオシギは冬に見られるシギであり、全国的に広く見られる普通種のイソシギも北日本では夏にしか見ることができない。もはや秋の季感を持つシギの方が珍しいということになってしまう。
チドリの仲間も同様で、もっとも一般的な種とされるコチドリでさえ基本的には夏に見られる鳥である。冬に見られるのは南西日本に限られ、それも少数である。
そもそも日本で見られる鳥は4つに大別可能である。それは、①通年見られる鳥、②主に春から夏に見られる鳥、③主に秋から冬に見られる鳥、④主に春と秋に見られる鳥、となる。
以前はこれを留鳥、夏鳥などと呼びならわしていたが、観察地によって分類が変わってしまうという相対的なものであるため、あまり実用的でない呼称といえる(北海道と沖縄で異なるのは当たり前である)。
この中で、シギチの仲間はどちらかというと例外的な④、従来「旅鳥」と言われていたものに分類されるものが多い。これは繁殖地あるいは越冬地が日本国内にはなく、単に日本列島を一時的に通過していくだけということを意味する。
つまり、日本よりさらに北で繁殖し、日本よりさらに南で越冬するのである。
根本的な話をする。鳥は何故渡るのだろうか?
ほとんどの鳥はヒナを育てるとき、虫や魚など動物性のものをエサとして利用する。このエサとなる小動物が発生するのは基本的に温暖な時期である。
極地に近いエリアでは温暖な時期、すなわち夏が非常に短いため、すべての小動物が一斉に現れる。これは鳥にとっては簡単に大量のエサを獲れることを意味し、繁殖には非常に有利な状況といえる。
一方、熱帯であれば年間を通して安定的に小動物が発生しているのでエサに困ることはないはずである。しかし広く薄くの状況下ではエサを捕らえるためのエネルギーを多く必要とし、ヒナを育てることは難しい。数千キロにも及ぶ渡りは命がけのリスキーな行動であるが、それでもエサが捕りやすいアドバンテージを利用するほうが繁殖には有効という選択なのである。
シギチの仲間は鳥類全体で見ても飛翔力に優れるものが多い。
前述の日本を通過していくルートとして、夏場を過ごす繁殖地が北極にほど近いロシア北部のツンドラ地帯、冬を過ごすのは東南アジアのみならず赤道を越えてオーストラリア沿岸にまで及ぶ。繁殖目的で日本に渡来する多くの鳥が東南アジアとの間を往復していることを考えると、倍に近い距離を移動していることになる。
数多のシギのうち、この長距離移動をものともしない種(傍題におけるソリハシシギ、アカアシシギ)は、ほとんど秋にのみ見られることから、どうやら秋の季語としての資格十分といえそうである。一瞬だけ立ち寄るというのも味わい深い。
問題はチドリで、冬の季語とされているために一体どの種類が念頭に置かれているのかがわからない。しいて言えばエリアは本州以南限定とはなるもののコチドリあたりならぎりぎり許容できるか。シロチドリも冬期に見ることができるが、通年生息していて冬ならでは、というものでもない。ムナグロに至っては秋にしか見られないので、傍題不採用とするのが妥当なほどである。
結局、チドリにおいては「浜千鳥」の序詞としての歴史からなんとなく季語になったのではないか?とも邪推している。このあたりの関連でいえば、浜につく千鳥の足跡もちょっと怪しく、これはミユビシギやハマシギ、キョウジョシギの行動を示唆する。すなわち、「シギチ」と同様にシギとチドリを混同あるいは区別をしていなかったのではないかと考えている。
もはや季語「シギチ」として秋の季語にまとめてしまえばいいのに、と思ったりもしている。