世界俳句(2)
俳句は世界文学になったのか
―『奥のほそ道』スペイン語版を通して考える
太田靖子
このタイトルはあまりにも大きな問いを投げかけていますので、答えを出せるかどうか心もとないです。
けれども、デイヴィッド・ダムロッシュの世界文学の定義「世界文学とは翻訳を通じて豊かになる文学である」から発して、ロバート・フロストの「詩とは翻訳で失われるものだ」との逆の考え方も踏まえて、スペイン語に訳された『奥のほそ道』が豊かになったかどうかということを考察したいと思います。
俳句がスペイン語世界に紹介されたのは、20世紀初頭で、英語やフランス語の俳句紹介書を通してでした。スペイン語世界の詩人たちがW. G.アストン、B.
H.チェンバレン、ミシェル・ルヴォン、P. L.クーシューなどの日本文学の紹介書に触発されて短い詩をスペイン語で書き始めました。
果たして俳句を紹介する際、最初に俳句という言葉を使ったのは誰だったのでしょうか。
メキシコの詩人ホセ・フアン・タブラーダは、スペイン語圏に日本の俳句を本格的に導入し、1919年にスペイン語初の俳句集『ある一日...』を出しています。
実はそれ以前の1900年に彼は日本についての紀行文『日の国にて』において、すでに芭蕉を紹介しています。そこでは、俳句や俳諧という言葉は使われておらず、
詩人芭蕉は声を大にして詠んだ。冬は近づく。カデンツァの雪はすでにかなり重くグラジオラスの葉をしならせる
と述べているのみです。
これは「初雪や水仙の葉のたわむまで」の訳だと思います。水仙がグラジオラスになっているので、わかりにくいですね。しかも、これだけでは、芭蕉のことを知らない人はこの短詩が俳句であるということすらわからないですね。
タブラーダは『広重』(1914)のなかでは、芭蕉の”haikai-ミニチュアの詩“として「花の雲鐘は上野か浅草か」を訳し解説もしています。この句は、アストンの『日本文学史』(1899)に解釈と共に掲載されていることからみて、タブラーダがこの本を参考にしたことは確かです。
それより前に“haikai”という言葉を使った人がいました。グアテマラの詩人ゴメス・カリージョです。彼は1907年にパリでスペイン語の『日本の魂』という本を出版しています。
そのなかには「詩的感情」という章があり、「haikaiは5・7・5である」と明示し、守武の「落花帰ると見れば胡蝶かな」や芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」など数句の俳句を紹介しています。レオン・ド・ロニーについての言及があることから、彼の本などを参照したと思われます。
現在のスペイン語圏での俳句の状況はどうかというと、未曽有の人気を博しており、著名な詩人ばかりか市井の俳句愛好家が増え、日本の俳句の翻訳書だけではなく、スペイン語で創作された句集も出版されています。
また、俳句連盟もいくつもできました。2010年代に入ってからは、句会も行われるようになり、スペインには吟行をする連盟もあります。
さて、スペイン語圏への日本の俳句集の紹介に話を移します。最初に出版されたのは『おくのほそ道』でした。翻訳したのは、ノーベル文学賞詩人のメキシコ人のオクタビオ・パスと元駐スペイン日本大使の林屋栄吉です。1957年のことです。この翻訳書はヨーロッパ言語への最も早い訳本であったとパスが自負しています。
その後、この本は出版社を変え1971年と1981年にスペインで、1992年に日本で、2003年にペルーで、2005年にメキシコでと版を重ねています。特に1992年版は、蕪村の筆になる『奥の細道絵巻』がカラー版で掲載された2万円もする超豪華版です。
訳し方としては、まず林屋栄吉が原句をスペイン語に直訳し、それをパスが詩的にアレンジしました。今回は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の訳を取り上げます。この訳が一番特長のある訳し方をしているからです。初版での翻訳は次のようなものでした。
¡Quietud!
El canto de las cigarras
Se hunde en las rocas.
不動(静けさ)!
蝉たちの鳴き声が
岩に沈む
この訳は「岩に沈む」というところが原句とは少しずれているかもしれません。次に、第2版でパスはこの訳を大々的に次のように修正しました。
Tregua de vidrio:
el son de la cigarra
taladra rocas.
ガラスの(ような)休止
蝉の声が
岩を穿つ
「ガラスの(ような)休止」とは一体何なのだろうと思われるでしょう。パスはこの訳に注をつけていますので、長文ですが紹介します。この注は、林屋栄吉がパスの修正後の訳を見て不安を感じてパスに訴えたため、あとからパスがつけたものです。そのときパスは「どんな翻訳も文字通りの直訳にはできないしすべきではない。ヴァレリーの言のように『異なる手段を使って同類の効果をもたらすべきだ』」と述べたそうです。注は「私の翻訳はあまりにも自由すぎるかもしれないが」で始まる次のようなものです。
私はここで私の翻訳を釈明しよう。芭蕉は明示的にではないものの、物質的なものと非物質的なもの、静かなものと音を出すもの、目に見えるものと見えないものを対立させている。人間の動揺に対して野原の落ち着き、石の極端な頑丈さと蝉の声のもろさ。二重の動き、つまり、詩人の不安な意識が風景の不動に調和して、鎮まり軽くなる。蝉の響き渡るハンドドリルが、黙した岩を貫く。揺れているものは静まり、石の硬さは開く。目に見えない響き(虫のチーチーいう音)は、静かな目に見えるもの(岩)を貫通する。これらすべての対立項は融合して、瞬間的に凝固したものの一種になる。その凝固したものは、詩の17音節が続いているあいだ続き、蝉、岩、風景、そして詩を書いている詩人が消散するのと同様に消散する。…私は「不動、静けさ」の代わりに「休戦、休止、絶え間」という言葉を思いついた。それは芭蕉が呼び起こす経験の瞬間性を強調する。自然界と詩人の意識の両方において中断と休戦の瞬間。その瞬間は静かでありその静けさは透明である。蝉のチーチーいう鳴き声は目にみえるものとなり、岩を通り抜ける。そのように、その休止は、静けさと同義語であり静けさを可視化した材料、ガラスでできている。イメ―ジは、音が静けさを貫通するように、ガラスの透明を貫通する。私の残りの二行が自ら説明していると思う。
パスは、「休止」という言葉で芭蕉の経験の瞬間性を表現しようとしたようです。それによって「蝉が鳴き止んだある瞬間」、つまり「静寂」を描いたのでしょう。しかも、その静寂はガラスのように透明であるとパスは感じたということでしょうか。「ガラスの(=ガラスのように)」と付け足したところにパス流の感覚が込められていると言えます。
「休止」と訳したことで、読者は先ず「何の休止なのか」と疑問を持ちます。次に、「蝉の声が岩を穿つ」と来ますので、「ああ、蝉の声の休止の静寂だ」とわかります。時系列で言うと、蝉の声から一瞬の静寂、そしてまた蝉の声へということでしょうか。パスは句の頭の静寂が元々あった静寂なのか、それともいつ訪れた静寂なのかなどと考えたのではないでしょうか。二元論では、蝉が鳴いているか静かかのどちらかしか考えられないでしょうから。
次に「岩を穿つ」ですが、これはスペイン語の「ドリルなどで穴を開ける」という意味の動詞を使っているので、元句の「しみ入る」からは離れています。パスにとって蝉の声とはそういうものだったのでしょうね。さらに、初版で蝉が複数だったものが単数に変わっているのも興味深いです。日本でもこの芭蕉の句の蝉は一匹か複数か、また蝉の種類は何かなどの論争がありますね。
この訳に関して、私自身は、訳の域を超えてパスの創作になっていると感じます。それは、芭蕉の句が、パスにこのような自由訳を促すほどの、いわば、パスにここまでのインスピレーションを与えるほどの詩だったからかもしれません。パスの注を読むと、パスがこの一句からいかに様々なことを読みとったかがわかります。それは私たちが何気なくこの句を読んでいた時にはおそらく気づけなかったことではないでしょうか。
皆さんもご存知のように、この句の解釈には諸説あるようです。蝉が閑さのなかで岩に染入るように鳴いている。蝉の声が岩に染入ってしまったあとの静寂を詠んでいる。王籍の「蝉噪ギテ林逾静カナリ」を下敷きにして、鳴いているからこそかえって静かに感じているなど。皆さんはどれだと考えておられましたか。
つまり、この句は何通りもに読める開かれた作品なのです。開かれた読みができればできるほど世界文学になりやすいのではないかと思います。その点で、俳句は、本来開かれた読みを内蔵しているものなので、翻訳されても生き延びる可能性があるということです。
パス以外の訳には、ごく普通のスペイン語訳もあります。『奥のほそ道』の訳本は、私の知る限り他に3冊あります。参考までにそのうちの一つ伊藤昌輝の訳を紹介します。
Todo en calma.
En las rocas se infiltran
Cantos de cigarras.
すべては静けさのなか
岩にしみこむ
蝉たちの声
以上、いかがでしたか。今回は芭蕉の俳句を一句取り上げただけですので、俳句が世界文学になったかという問いかけへの答えを出すことは到底不可能です。また、「閑さや」の句がパスの翻訳によって豊かになっているかどうかという点に関しても、意見は分かれるでしょうが、皆さんはどのように思われましたか。一つ言えることは『奥のほそ道』が翻訳の壁を越えて、スペイン語圏で読み継がれているということです。さらに、スペイン語への翻訳を通して私たちは俳句の原作の奥深さを知ることになったとも言えるかもしれません。