関西現代俳句協会

■2019年10月 青年部連載エッセイ

世界俳句(7)
夢見る俳句(4)

堀田季何


 今回は、俳句が外国語で書かれる際の「行」について軽く述べておきたい。

 日本語俳句を3行で表記する場合、分かち書きの場合と多行形式の場合があり、前者は1行の俳句を多行に分かちて色紙などに書きつけたものであり、句集などでは1行として印刷され、後者は最初から多行として作られた俳句であり、1行俳句の瞬間性を犠牲にするかわり、改行による断絶を活用することができ、多行詩として機能することから句集などでは多行で印刷される。

 外国語の場合、殆どの言語において大半の俳句が3行で表記されていることは知られている。夏石番矢・世界俳句協会編『世界俳句2019』(コールサック社)でも一目瞭然である。しかし、これは日本語俳句を3行で表記する場合とは同じではない。なぜなら外国語俳句を3行で表記している理由がケースバイケースで違うからだ。第一に、言語的な読みやすさと関連している場合がある。1行として表記すると横に長すぎる場合が多い。2行や3行にしたほうが読みやすい。特に、2句1章の場合、2行か3行にしないと文法的に一瞬戸惑ってしまうことが多い。第二に、日本語の定型に元々ある3句構造を3行に対応させているか、対応できていなくても3の概念を引継いでいる場合がある。第三に、純粋な分かち書きの場合もある。第四に、あまりにも3行表記が多いので、惰性で3行にしている場合がある。第五に、日本語の多行形式と同じ効果を出そうとしている場合がある。第六に、行末の脚韻を狙った場合がある。

 外国語の3行形式の場合、多くの言語で、第三の分かち書きと第五の多行形式の両方が併存し得るのは、改行が息継ぎとも断絶ともなり得るからである。ただの息継ぎの場合、日本語俳句だと表記には反映せず、そのまま1字空けや読点も入れず1行で句を書く。だが、多くの言語だと読点が要求され、読点を入れるか改行するかになり、外国語俳句の場合、息継ぎのポイントに合せた分かち書きが自然と多くなる。それゆえ、改行したとしても、日本語での改行ほどの断絶感を覚えない。

 以上の6つの事由から1行は選ばれにくい。アメリカの俳人Jim Kacianが書いた「somewhere becoming rain becoming somewhere」(筆者訳:どこかになる雨になるどこか)は1行が最適であるが、普通このようにはなりにくい。(多行形式とは同義でない)多行表記が選ばれるが、3行でなく2行や4行にしてしまった方が効果的なものもある。しかし、3行が多いのは第二および第四の事由であろう。第二に関しては、世界俳句協会ディレクター兼理事長の夏石番矢は3句構造を「俳句詩学にとって最も中軸」として強く主張している。「俳句四季」2014年12月号には「俳句の新詩学⑫三句構造の力」という文章も寄稿している。

 それに対し、設立されたばかりの日本俳句協会は、「当初は、2行詩を基本型として、1行目と2行目に『切れ』を有するHAIKUを提唱しています」としている。上述第一の事由と関連すると思われるが、3行を主張しないのは、句中に切れを有する2句1章の句(「1行目と2行目に『切れ』を有するHAIKU」とほぼ同義)なら2行で表記すれば済むという理屈だからだろう。ただし、1句1章の句や他の特殊型の句はどうなんだろう。そもそも「1行目と2行目に『切れ』を有するHAIKU」を提唱している時点で、俳句の可能性を狭めている気がする。外国語に切字がないとはいえ、体言止めや感嘆符などによる句末の切れもあり得る。

 なお、日本俳句協会は同時に「国際的には『切れ』を有する短詩型文芸(主に1~3行詩)をHAIKUと定義します」としている。筆者は以前に、季語や定型が通じない世界俳句では切れが短さやキーワードを要請し、世界俳句とは一種の切れを伴った有キーワード自在律句に等しい、と書いたが、日本俳句協会の国際的なHAIKUに関する定義と重なる。高山れおなは、近著『切字と切れ』において、「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく、1960~70年代に切字説から派生した一種の虚妄であると主張しているが、仮にそうだとしても、世界俳句においては「切れ」こそが本質であり、伝統でさえもあると筆者は述べておきたい。

◆「世界俳句(7) 夢見る俳句(4)」:
堀田季何(ほった・きか)◆

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