関西現代俳句協会

■2019年5月 青年部連載エッセイ

世界俳句(3)
夢見る俳句(2)

堀田季何


 今回はいきなり脱線して、一句に季語が二つ以上ある状態、季重なりについて少し考えてみよう。これは季題(※ここで云う季題は、あくまでも題であり、季語と同義ではない。同じ「ホトトギス」でも、虚子は題として、その孫の稲畑汀子は季語とほぼ同義として使っていると、それぞれの文章から推察される。季語は虚子と対立した乙字・井泉水が提唱していたので、虚子が季語の意味で季題という言葉を使っていた事はまず有り得ない)でなく、季語の問題である。例えば、季題派の虚子は、花鳥諷詠もとい季題諷詠を説き、季題を重んじたが、季感と密接に関係している季語には興味なかった。実際、季語が複数入っている季重なりの句の論評にあたり、季重なりを良いとも悪いとも言っていない。虚子選において季重なりはタブーではなかった事は、近年では、筑紫磐井や岸本尚毅が指摘しているところである。そもそも、和歌以来、季題には複合的な結題のようなものがあって、「初春霞」「蝉声夏深」「蛍火秋近」「月多秋友」といった季題がある事から、季語が複数入っている季重なりを季題派が気にしないのは当然の事かもしれない。

 虚子に限らず、芭蕉、蕪村、一茶、子規といった面々も季重なりをタブー視していなかった。それどころか、季題派にとどまらず、季感を重んじた季語派の俳人でさえ季重なりの句を作っていて、秋桜子は特に多い。結局、近代以降も、季題・季語に対する考え方はともかく、虚子や秋桜子の他にも、鬼城、蛇笏、誓子、素十、草城、楸邨、波郷、龍太といった大御所たちが季重なりの句を堂々と作っている。それも、同じ季節の季語だけではなく、異なる季節の季語が入っている季違いという類の季重なりの句もたくさん作っている。しかし、この21世紀、彼ら大御所たちの弟子や孫弟子たちが主宰や選者として、季重なりを理由に句を自動的に難じたり落したりする景を目にする事は多く、俳諧・俳句の歴史を鑑みれば、この現象は奇異に映る。

 もちろん、俳句は短歌よりも短いゆえ、無駄な季語は要らない。上記のような「蝉聲夏深」(「蝉の声」と「夏深し」)や「蛍火秋近」(「蛍火」と「秋近し」)のような組合せは俳句では成功しにくい。本意本情を思えば、「蝉の声」に「夏深し」、「蛍火」に「秋近し」がそれぞれ含まれるのがわかるからだ。そういう意味で、初心者が作りがちな「夏暑し汗かきながら氷菓食ふ」といったような句は、季重なりの失敗例と言えよう(「氷菓」で足る)。しかし、「秋天の下に野菊の花弁欠く」(虚子)、「枯菊の根にさまざまの落葉かな」(虚子)、「小春日や石を噛みゐる赤蜻蛉」(鬼城)、「蛍火や馬鈴薯の花ぬるる夜を」(蛇笏)、「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」(秋桜子)、「風邪の床一本の冬木目を去らず」(楸邨)、「春すでに高嶺未婚のつばくらめ」(龍太)といったような季重なりの句は、句の出来は別として、季重なりを以て没とすべき句ではない。重要なのは、季重なりでも成功しているか失敗しているか、言葉が必然か無駄か、といった事であり、季重なりを自動的にタブー視するのが愚である事はわかると思う。

 では、なぜ季重なりがタブー視されるようになってきたか。愚見だが、1970年代後半からの俳句ブームに付随したカルチャースクールや俳句教室の隆盛がその背景あるように思われる。初心者に良い季重なりと悪い季重なりを教えるのは難しい(上級者でも判別に迷う事が多いのは事実)ので、前述した「夏暑し汗かきながら氷菓食ふ」のような句を作らせないためには、一句に一つの季語と安易に指導した事は想像に難くない(指導者によっては、季重なりは大家になってからなら良いとか言った可能性もある)。これがいつの間にか教条的なもの、ルールのようなものになって行った可能性が高いと筆者は踏んでいる。師弟のつながりが強く、師風が受け継がれてゆきやすい俳句界の事、生徒側は、大成しても、季重なりを基本的にタブーだと信じ込んだまま専門俳人になっただろうし、教える側も「模範例」となるべき句を作ろうと、その時期以降、季重なりに慎重になって行ったのかもしれない。証拠というのも変だが、80年代以降、総合誌や実力俳人の句集に出てくる季重なりの句が大幅に減っているように思われる(※厳密に数えてはおらず、あくまでも推測である)。ちなみに、季重なりの反対で、季語が無くても良いと教えていた教室も少なかったと思われるが、それは無季容認派であった指導者の少なさに因る。結局、複数でも無でもなく単数の一つという指導になったようである。

 さて、21世紀現代において、季重なりを基本的に忌避する俳人たちには二つタイプがいるようだ。一つは絶対に忌避するタイプ。彼らの師の師くらいは季重なりの句を残していると思われるが、理屈抜きの教条派なのだから仕方がない。彼らの自由である。もう一つは厳しい制約を設けているタイプ。こちらは季語派に多く(※季題派だと冒頭の虚子の態度に落ち着く)、彼らの主張はまちまちであるが「季語が一句の中で最も重要な言葉であるからそれに焦点を当てたい。二つあるとぶれる」や「どの季語の季感で句を捉えればよいのかわからなくなる」や「歳時記の分類に困る。季違いの句だと本当に困る」(分類に困るからどうした、と言いたくなるが)といった意見をよく聴く。そして、彼らの妥協点として、「主季語、従季語のように強弱が明快であれば、主季語が焦点だし、その季感で句を捉えればよいし、主季語で分類すれば済む」といった意見に落ち着くことが多い。確かに、季語の主従というのは、季重なりの句を基本的に忌避する人間が容認する上で便利な概念である。

 しかし、季語の主従という概念を扱う場合、主従の判定方法が欠かせなくなる。概ね、次のような方法である。季語の主従を説く俳人の殆どは、季題諷詠でなく季語の季感を重んじる人間であるから、第一ステップとして、特定の日に限定される季語を他の季語よりも優先する。一句に「桃の花」と「蠅」があったら、「桃の花」は春だけのものであるから、「蠅」を夏でなく春の蠅と解釈し、「桃の花」を主季語とする。「時雨忌」と「冬」があったら、どちらも冬の季語であるが、「時雨忌」の方が日を限定(特定)するので、「時雨忌」を主季語とする。「月」と「スケート」なら、本来「月」は秋における最強の季語であっても、一年中ある「月」は寒月と解釈され、まずは冬にしかない「スケート」の方を主季語とする(秋のスケートとはまず解釈されないだろう)。それが難しい場合、第二ステップとして、竪題や横題の季語があれば新季語よりも優先する。新季語は明治以降にたくさん提唱ないし歳時記採用された季語であり、季感や認知が衰えたら比較的容易に排除され得るものである。「時鳥」と「サングラス」なら「時鳥」を主季語とする。「時鳥」と「ビール」だったら尚更で、「ビール」は新季語である上、一年中飲まれていて季感も弱くなっているので、迷わず「時鳥」を主季語とする。重要なのは、第一ステップが第二ステップに勝つ事である。前述の「月」と「スケート」はそれぞれ竪題季語と新季語だが、第一ステップにより「スケート」が主季語になる(第二ステップを用いると反対の結果になってしまう)。それらの方法でも駄目な場合は、第三以降のステップになるが、この辺は曖昧であり、俳人によって様々である。ここまで来ると「一句の中での働きで決める」「句に漂う季感で決める」とする俳人も多いが、それは容易な事でなく、同じ句でも俳人によって主従の決定が異なる事も少なくない。そして、それでも主従が決められない場合、季語の主従を説く俳人たちの殆どは主従の見えにくさを理由にその季重なりの句を不可とする。

 雪を月が照らしていて、「雪に月」という五音が入っている句があったとしよう。「雪」は冬以外にも見られるし、「月」は秋以外にも見られるので第一ステップは適用できない。例外として、春を示す語彙が別に入っていれば、春雪と春月と解釈され、春を示す語彙が主季語になってしまうだろう。しかし、季語が「雪」と「月」だけなら無理である。そして、いずれも新季語でないので、第二ステップも適用できない。しかも、「雪」も「月」も「雪月花」に含まれる最強の竪題季語なので、竪題と横題、比較的古い竪題と少し後の竪題といったような区別もできない。こうなると、個別の判断になると思うが、秋の句か冬の句か悩むはずである。秋雪と月の事なのか、雪と寒月の事なのか。そして、焦点にしても、雪が照らされている事と月が照らしている事とどちらを重んじるかは大いに疑問の余地がある。つまり、主従の判断はまず無理、歳時記分類は完全に無理であろう。季重なりを基本的に忌避する俳人からすれば、この状態ではどんな句であっても受け入れられないだろう。だが、「雪に月」という語句を含む秀句はないはと言えないのではなかろうか。特に、季語派でなく、両極端の季題派や無季容認派から見れば、「雪に月」という語句を含む秀句は可能であるはずだ。

 これが前回の世界俳句にどうつながるかと言えば、季語が成り立たない外国語俳句の場合(※季節性のある言葉、season wordは、和歌的ないし俳諧的な意味での本意・本情がないので季語ではない。漢字文化圏における季節性のある言葉は季語に近いが、厳密には季語ではない)、季節性のある言葉を含む句であっても実質上は無季(雑)の句であるから、季重なりは意味を持たない。また、季語の本意や本情が成り立ちにくい地域(主に海外。日本でも、沖縄等)にて季語が示すコトやモノを詠んだ日本語俳句の場合、その句は季語を含んでいたとしても実質上は超季(雑)の句であるから、季重なりはやはり意味を持たない。「季語の本意と本情はこうなのだから、それが成立しない地域においても季語は本意と本情で解釈されるべきで、季語でなくなる事はあり得ない」と主張して、サハラの蠅を詠んだ句を夏の句としたり、モスク(マスジド)の上の月を詠んだ句を秋の句としたりするのは、極めて失礼な事である。「蠅は夏で、月は秋なんだから、どういう場合でも夏と秋と解釈すべき」というのは、自分が相対した土地や人々や文化に全く心を砕かない態度であり、挨拶として最低の表現であり、そもそも連句の発句に季語が入れられた時以来の俳諧の挨拶性、精神そのものを大いに害する。きちんと、サハラの自然やイスラムの文化を理解した上で蠅や月を捉えるべきであり、いくら日本語で「蠅」「月」と表記されてもそれらは季語として機能していないのを理解すべきである。

 そうなると、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠んだ日本語俳句においてしか季語は成立せず、それ以外の地域では季語入りの日本語俳句でも実質上は雑、外国語俳句なら季語の訳や現地の季節性のある言葉を入れても実質上は雑、という事になり、俳句の世界的普及の上で季語という概念が障碍、いや、その反対、無視できるものとなるのは自明である。無論、有季の句を作るか作らないか、また、有季を俳句の絶対条件とするかしないか各自の自由であるが、国外の俳句人口が国内のを上回っているという俳句の国際化の現状を鑑みれば、21世紀において季語固執はあまり広がりのない態度であると言えよう(「伝統」という言い方もできようが)。ただし、21世紀における俳句のあり方として、無季や雑を標榜するのも同様に莫迦らしい。無季や雑というのは、有季に対する概念であり、態度の本質は季語固執と変らない。しかも、無季を標榜しては、俳句及び季語が育った「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語の有季俳句を切り捨ててしまう事になる。そこで、もっと包括的な、一種のアウフヘーベン的な態度があっても良いという考えが浮かぶ。つまりは、季に捉われない、有季や無季・雑の概念を越えた自在季の精神である。その精神を以て、従来の季(キ)語(ワード)から、どの言語どの地域でも成立し、それぞれの言語・地域文化に特有の強い力を持つ、季に捉われないキーワードへの移行が行われ得る。無論、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語俳句においては、竪題や横題の季語は大切なキーワードであり続け、自在季に基づくキーワードの概念は季語を否定しない。ただ、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語俳句においても他の(雑の)キーワードがあり、他の地域や言語には(決して季語でない)多種多様なキーワードがあるという事である。

◆「世界俳句(3) 夢見る俳句(2)」:
堀田季何(ほった・きか)◆

▲関西現代俳句協会青年部過去掲載ページへ

▲関西現代俳句協会青年部トップページへ