関西現代俳句協会

■2019年3月 青年部連載エッセイ

世界俳句(1)
夢見る俳句

堀田季何

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 俳句を成り立たせるパラダイムと言えば、日本語俳句の場合、五七五を主とする定型があるのは間違いない。五七五を主とするが、五七五に字余り・字足らず・句割れ・句跨りといった破調の操作をしたリズムだけでなく、明らかに七五五や五五七や七七五といったリズムの句が連句の時代から現代に至るまで多数作られており、それらも定型と見做せよう(定型遵守の飯島晴子にも作例は多い)。さらに、定型を基本にすると言っても、必要性があれば破調の技法を組み合わせても良く、それらの定型の約十七音に近い三句構造を基本にするという意味にしか過ぎない。「伝統」の虚子でも二十五音の句を作っているし、「前衛」の金子兜太に至っては三三三の九音から九九九の二十七字までは定型を感じると述べている。日本語におけるこれらの音数の範囲が、俳句的な切れを成立させ得るにちょうど良い短さの内容を記述するのに適しているという点も見逃せない。(音数が長すぎる事により)内容が長すぎてしまうと、切れは鈍ってしまい、一撃必殺性が翳んでしまう。さらに、忘れてはいけないのは、日本語の俳句における定型は、定型と呼ばれるに至るまでの歴史的背景があり、季語やキーワードだけでなく、定型も挨拶性を保持している事である。日本語の俳句で定型を使う事自体が挨拶になる。また、三句構造の三という数にも、陰と陽にそれを動かす存在を加えた数、陰陽天地創造を為し得る最小の数、といった意味があるが、脱線してしまうので割愛したい。日本語における自由律俳句は、長いのも短いのもあり、三句構造でないものも多いが、定型の不在による挨拶の欠如を読者に強く思い起こさせる事を一種の効果にしている詩型である。型がなく、挨拶がないという事は、堅苦しさがないという事にもつながり、日本語の自由律俳句に口語調が多い事にも影響していると思われる。

 定型について最後に一点述べておきたいのは、外国語の俳句において定型は無意味な事である。俳句は日本で発生したものであるので、外国語俳句においても定型と言えば日本語俳句から持ち込まれた定型を指すが、外国語に定型が持ち込まれた時、前述のような音数の柔軟性も定型のバリエーションもなく、愚直な五七五の音(※多くの言語では音節で数える)がfixed formと呼ばれるに至っている。もちろん、外国語における五七五は歴史的背景が全くないため、日本語の定型であったような挨拶性がなく、外国語の俳句で定型を使おうが挨拶性がないので、それは自由律と変わらず、自由律を使おうが定型でない事による特殊な効果は生まれないので、それは定型と変らない。つまるところ、外国語では五七五とそれ以外(自由律を訳してfree formと呼ばれている)しかないが、差異はなく、最初から「自在律」として音数構わず作句した方が良いように思われる。但し、その言語に合った短さが不可欠である。俳句的な切れを生じさせるに適した内容の長さと対応する音数は、日本語では平均的に十七音くらい(どの言語でも当然伸び縮みする)であったが、英語だと平均12音くらいだし(十七音くらいになると切れ味が悪くなる)、中国語だと七音でも十分である(漢俳という形式で、漢字で五七五の句を作ると日本語の短歌二首分以上の内容が入ってしまい、切れは死んでしまう)。欧米の言語では三行表記が多いが(日本語の多行俳句と違って、改行は断絶になりにくい)、それにこだわる必要はなく、内容に合わせた表記で良いと思う。一行が良い場合もあるし、句中の切れがある場合、近年設立された日本俳句協会が提唱する二行表記が適している場合が多い。但し、どの表記にしても、三句構造の方が他の構造よりも筆者の経験上上手くいく。

 これまで見てきたところからすると、日本語俳句の場合、俳句としてのパラダイムの中心となるのは、五七五を主とする定型と季語を主とするキーワードと切れの三点を有する事を基本にする句であるように思われる。五七五以外の定型の句も無季(だけど季語的キーワードのある)句も含まれるし、あくまでも基本であるので、多行俳句や自由律俳句も限界的な領域で許容できる。外国語俳句の場合、(日本語の俳人でも外国語の俳人でも気づいていない人間が多いが)定型や季語を基本として考えざるを得ない日本語俳句のパラダイムは結局ナンセンスであり、成立し得るパラダイム(「新パラダイム句」)は、短い自在律と言語特有のキーワードと切れの三点を有する事を基本にする句であるように思われる。

 さて、自明だが、この「新パラダイム句」は、日本語俳句で当然の事が当然でない言語環境で日本語俳句のパラダイムを進化させたものであり、どの言語でも成立する。日本語でも成立する。短い自在律と言語特有のキーワードと切れの三点を有する事を基本に、日本語で句を作れば良いのだ。「新パラダイム句」で作られる句は従来の日本語俳句のパラダイムで作られる現代俳句と見分けつかない句も多いだろうが、根本的パラダイムが全く違う。季語や定型の概念が最初からない。その意味で、「新パラダイム句」を何と呼べばよいのだろうか。従来の日本語俳句のパラダイムで作られる句を「俳句」と呼ぶ場合、それは、日本語の古典・近代・現代俳句および日本語俳句のパラダイムを直接外国語に持ち込んで作られた外国語俳句の総称である(※古典俳句を俳句でない発句として外す俳人もいる)。しかし、どんなに似ていても、「新パラダイム句」として日本語や外国語で作られる句は従来の「俳句」とは別物である(それこそ本当の意味で「俳句に似たもの」である)。さらに問題なのは、外国語俳句の作者には、従来の日本語俳句のパラダイムで作っている俳人と新パラダイム句を(意識的に、ないし、無意識的に)作っている俳人の両方が混在していて、どちらもhaikuを作っていると思っている。「新パラダイム句」とかなり近い意味の句を、世界どこでもどの言語でも成立するという意味で「世界俳句(world haiku)」と呼ぶ案を夏石番矢は提唱しているが、この呼称では従来の「俳句」の範囲内の一詩型に思えてしまい、根本的なパラダイムの違いが見えてこない(※筆者と違い、夏石番矢は「俳句」の最先端だと考えているので、彼にとってはこの呼称で全く問題ない)。大体、外国語では「新パラダイム句」もhaikuに括られているので、haikuを付けた名称で呼ぶしかなく、悩ましい。日本語での呼称の問題もあり、従来の「俳句」と分けるためにを片仮名の「ハイク」にしてしまう手も考えたが、英語では同じhaikuである上、(従来のパラダイムに基づいていても、その)外国語俳句を「日本語でないので本当の俳句ではないよね」と「ハイク」と表記されてきた排外的な経緯があって、一部の外国人俳人は疎外感を覚え、悲しむらしいので止めた(全く悲しまず、自分が外国語で書いた俳句を片仮名で「ハイク」と一律に表記する、日本語が解る外国人俳人もいるので、一層複雑だ)。「新俳句」もダサいし、やはり「世界俳句(world haiku)」で落ち着きそうだ。そして、最終的には、「haiku」は「俳句」と「世界俳句」の両方を含む広義の概念になるであろうし、日本語による「世界俳句」が増えたら、パラダイムの違いを問わず、「俳句」という言葉は「haiku」と同義になり、「世界俳句」を含むようになるであろう。

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堀田季何(ほった・きか)◆

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