世界俳句(1)
夢見る俳句
堀田季何
俳句が成立した流れというものがある。概ねのコンセンサスは取れている。五七・五七・五七……五七・七というリズムの長歌があり、その短い形として(長歌の反歌にもなる)五七・五七・七の短歌があり、それが五七五・七七という上句と下句を合わせる韻律に変化してゆき、それから五七五の句と七七の句を交互に付けてゆく連歌が鎌倉時代に派生し、さらに室町時代に俳諧の連歌(いわゆる連句)となり、江戸時代になると連句の一句目に当たる、五七五を主とする定型(破調とは言えない、五七五以外の定型も数種存在)に基づく発句がそれ自体でも詠まれる事が増えはじめ、やがて明治時代に西洋の文学と呼応するように発句そのものを完全に一つの詩として独立させる(つまり、それに別の句が付けられていく事を想定していない、個人の作品として単独で屹立する作品とする)俳句革新運動の頃から一般的に俳句と呼ばれるようになった。但し、厳密には、俳句という呼称は正岡子規の俳句革新運動の前から存在していて、発句の事も指していたので、子規の造語ではない。
呼称というのは難しいもので、室町時代から俳句革新運動頃までの連句の発句を古典俳句と呼び、それ以降の俳句を近代俳句と呼ぶ人間も多い。いつからの俳句を以て近代でなく現代俳句と呼ぶのか諸説があって、新興俳句運動の頃、敗戦後、前衛俳句誕生の頃といった説があるが、近代俳句と現代俳句はパラダイム的に何ら差がないので、現代における俳句も近代俳句のままと言い切っても良いかもしれない。無論、詩型という意味では、近代俳句も現代俳句も一行定型句だけでなく、近代には、従来の定型を破った五五三五や五五五三といった四分節形式を含む新傾向俳句が作られ、それから定型そのものを捨てる自由律俳句が生まれ、さらに、字空きを(切れとは違う)断絶として用いる字空きの俳句、改行を含めた断絶を用いる多行俳句などが派生していった。つまり、短歌や連句と違って、俳句という呼称はどうやら厳密な定義による一種類の詩型を指さず、パラダイム的なものである事が判る。しかも、前述のように、発句を古典俳句と呼んで俳句の一部と見做すか、発句と(俳句革新運動以降の)俳句を別物と見做すかは大問題である。国内では後者を主張する俳人、国外では前者を主張する俳人が多い(国外や外国語の詳しい問題は将来の回に言及する予定)。
とはいえ、そのパラダイムは何か。さすがに、大多数の人間にとって俳句が短めの語句だったら何でもよいわけではないだろう(俳句だという人間がいればそれは俳句だという主張もあるが)。他の詩型、例えば川柳との違いも気になる。しかし、ここで指摘したいのは、俳句を成り立たせるパラダイムと有季性は無関係である事である。有季と無季(雑)の問題であるが、時代や作家によって定義が異なり、季題に基づく、季題趣味である、季語(季の詞)が入っている、季感がある、など現代でも定義が分かれる。王朝和歌の時点で季の歌と広義の雑の歌は分けられており、季の歌は季題に基づいている歌、広義の雑の歌は主な題が季題でない歌(恋歌や哀傷歌も含まれる)である。季の詞が入っていても主な題が季題でなければ季の歌ではなく、雑の類とされた。連歌・連句の頃から、複数の人数で一巻の中で季節を素早く巡るための必要性もたぶんあって、季の詞を入れれば季の句と認める動きが生じた。季題派と季語派というわけであるが、季語の事を季題と呼ぶ人間もいてややこしい。発句(古典俳句)の多くは季の句(有季句)だが、雑の句(無季句)も歴史的に多くある。その発句(古典俳句)から近代の俳句が派生したわけだから、俳句という詩型の定義に季語は関係ない。古典俳句でも近代俳句でも無季句は多く作られた。無季句を「俳句に似たもの」として俳句だと認めない俳人たちもいて、認めるか認めないかは彼らの自由であるが、歴史的には怪しい主張であると言わざるを得ない。例えば、高浜虚子が季題を俳句の絶対条件としたのは、たかだか百年ちょっと前の事であるが(※日本伝統俳句協会の中核となっている「ホトトギス」でさえ歴史は僅か百二十年程度である。それより数年前に始まった俳句革新運動以降を俳句史とする人間からすれば、確かに彼らの句は伝統俳句であるが、発句を古典俳句と見做す人間からすれば、伝統俳句とは言わない)、その時点で無季の句は他の俳人たちによって普通に作られていた。子規も河東碧梧桐も虚子が俳句に復帰する前に様々な無季の句を作っている。しかも、俳句革新運動以前の古典俳句における雑の発句の存在や和歌における雑の歌を考えれば、俳句は成立において有季性が必要条件とされていなかった事が明らかであるし、虚子などによる、季語がなくては俳句でないという主張は、むしろ新しく、異端であった。
ちなみに、俳句には和歌及び連句から引き継いだ挨拶性という問題もあって、有季性は循環する季節との呼応および内在している本意・本情といった点で挨拶性に通じるが、これについても今後も言及する予定である。今言えるのは、無季句でも季語に相当するキーワード、季語並みの本意や本情を含み、喚起力を持つキーワードを使えば挨拶性を帯びる事ができるという事実である(※季語はキーワードのうち、季節と直接関連しているものである)。例えば、「こんにちは」という元の語句を省略した語句が挨拶の言葉になり得ているのは、この五音のキーワードだけで話し手と聞き手の二者に共通に理解されている符牒のごとき(元の語句にあった)挨拶性豊かな本意が引き出されるからである。挨拶の言葉ではない「戦争」や「天皇」も強いキーワードとして句に挨拶性を齎し得る。
なお、外国語に真の季語は少ないため(※季節性のある言葉であっても、長い歴史で本意および本情が育まれていなければ、キーワードたり得ず、季語たり得ない)、外国語俳句では各言語におけるキーワードの使用が重要になる(※日本語の季語を訳しても日本語の本意・本情は伝わらないどころか、外国語では違うニュアンスを持つ言葉であったり、季節性のない言葉であったりする事が多いし、季節性のある言葉程度では俳句的な切れによる一撃必殺に繋がらない)。外国語俳句で言うseason wordは、日本語の季語、外国語の季語(季節性を持つ、その言語で強いキーワード)、外国語のただの季節性のある言葉の三者を包括しているため、曖昧な言葉であり、外国語俳人の季語に対する理解を阻害している原因となっている。いずれにせよ、外国語の季語は極めて少ないので、外国語俳句では有季か無季かという問題は考える必要がなく、「有キーワード」という概念で考えて作った方が良いと思われる(「無キーワード」の句は大した本意・本情と繋がらず、神話的喚起力もないので、ロクな句にならない)。ちなみに、一つ注意したいのは、外国語で季語を使う問題と日本の本州中程と季節感の違う地域や海外を季語で詠む問題とは別種の問題である事だ。詳しくは将来の回で述べるが、後者は日本語俳句においても発生する問題である。
俳句と川柳の違いに関しても多数の説がある。しかし、発句から派生した俳句が有季で平句(特に、単独の七七の句に付ける前句附)から派生した川柳が無季だという有名な説は間違いである。すでに述べたように無季の俳句もあるし、実は、有季の川柳もある。大体、江戸時代の連句では、雑の発句もあり、季の平句もあった。連句をやれば自明だが、平句には季の句と雑の句の両方が最初から存在していて、雑である必要はない。俳句は物を詠み、川柳は人情・諷刺・滑稽などを詠む、という説も有名だが、あまりにも例外が多すぎる。連句では、発句よりも(特に中盤の裏や名残の表に出てくる)平句の方が内容的に制限がなく多種多様なため、俳句よりも川柳の方が人情・諷刺・滑稽に繋がりやすかったのは事実だが、一句で完全に独立するようになった近代以降は、俳句は後に付けられることを想定しなくなり、川柳は前に付けることを想定しなくなり、内容的にかなり重複するようになった。人情・諷刺・滑稽の俳句は多数ある。両者の違いに関して、ある程度信頼できる説は、切れの有無であって、発句(古典俳句)も近代以降の俳句も切れを備えているのに対し、平句であった川柳は切れを備えていない、というものである。筆者はこの説を採る。切れの極めて弱い俳句も強めの切れが入っている川柳も発表されているが、圧倒的多数の俳句は切れがあり、圧倒的多数の川柳は切れがないのは事実である。言うなれば、濃度の問題で、現代俳句と現代川柳の差と言えば、前者の切れの方が強い傾向にあるが、具体的なグレーゾーン内の線引きは人によるという事であろう。
この切れ、切字があってもなくても存在する切れというのは、俳句のパラダイムに通じると言えるかもしれない。俳句的な切れ(※基本的に息継ぎに過ぎない短歌的な切れとは全くの別物)は季語などのキーワードからイメージを読者の脳内に広げさせ、本意・本情を呼び起こし、場合によっては、意識下で神話的元型に通じさせる効果をもたらす。すなわち、俳句的な切れは認識の瞬間性を俳句に埋め込み、それを一撃必殺のように解放する役割を果たす(句に含まれている主な認識が、意味でなく音や表記の場合も稀にあるが、その場合は聴覚や視覚を通じて読者のイメージを広げてしまうので、俳句的な切れはあまり意味をなさない)。外国語には切字はないし、日本語ほど文法・文体的に複雑な言語は他に存在していないので、外国語俳句における切れのパターンは日本語のよりも少ないが、外国語俳句でもフレージングによる句中の切れや体言止めによる句末の切れを作ることは可能である。
断絶を有する字空け俳句や多行俳句はどうだろうか。それらは、切れがもたらす一撃必殺性を捨てるかわり西洋詩や漢詩に相当する時間的構造性を獲得した上、短歌より複雑な韻律の操作を短歌よりも少ない音数で行う事を可能としたが、切れおよび分かち書きの延長線にある。切れが俳句の基本にあって、切れを断絶に変化させてしまった俳句が一部存在するイメージである。
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