ろくじょうのやすみところ(最終回)
和 歌 ―和するやまとうた
御手洗靖大
★和する歌
この連載も今回で最後となりました。和歌とはどのようなものかということを大きなテーマとしてここまでお話してきました。一回目と二回目は和歌とのかかわりが深い儀式・行事のお話。そして三回目と四回目は歌人に焦点を当てた和歌の読み方のお話。さて、最終回にどんなお話をいたしましょうか。
実をいうと、ここまでお話してきた和歌には、ある側面がありません。みなさん、それが何かお分かりになるでしょうか。
すなわち、日常のなかの和歌という側面です。これはお話していなかったように思います。
生活と三十一文字といえば、近代短歌の歴史でいうと、土岐哀果(善麿)と石川啄木ですね。彼らは、生活感情に即した短歌、というスローガンをもとに、いわゆる口語発想の短歌を詠み、大正口語短歌へ続く新しい潮流を生み出しました。その後の現代短歌は、さらに生活感情というものとの親和性が高くなっているということは、現代短歌の世界に足を踏み入れている人なら、少なからず感じていることと思います。
短歌と和歌というものの違いを考えるにあたっても、このことは考えておくべき事柄のようです。
短歌は、たとえば、完全なるフィクションは詠みにくく(さらに評価されにくい)、生活のちょっとした発見は短歌にしやすい(よく私も短歌サイズの出来事という言葉を評価するときに用います)という価値観があります。この考え方を共有している方は少なくないのではないでしょうか。
一方、和歌はというと、日常生活にある事物を詠み込む歌が、圧倒的に少ないというところから、和歌は生活感を詠まないといわれることがあります。
先日、京都の冷泉家で和歌を習ってきたのですが、そのときの当座の題が「猫」でした。現代短歌の歌会ならば、日常の中に溶け込む猫の姿を歌にするわけですが、和歌となると、みて作るための先例がとても少なくて難しい…。主宰の冷泉貴実子先生は「これだけ身近な動物の題詠歌がすくないことからもわかるように、歌道の和歌は、実生活とはまた別世界の話なのですね」とおっしゃっていました。
なるほど、たしかに歌道としての和歌は、多くの場合、歌会という場と、題という詠作の契機があります。いわば、歌道の和歌は、体系化された和歌世界のなかで行われるパフォーマンスといえます。
しかしながら、和歌を歴史から見たとき、日常とともに和歌があることがわかります。
この話をするために、ちょっと寄り道して、ひとつ考えてみたいことがあります。そもそも、「和歌」という言葉はいつからあるのでしょうか。
最初の勅撰集である『古今和(倭)歌集』を見ると、漢文でしるされた真名序には「夫和歌者(ソレ和歌ハ)」仮名序には「やまとうたは」とあり、このあたりで和歌は日本の和歌であるという認識がありそうです。
ではその前に「和歌」という言葉がないかというと、そんなことはありません。万葉集に次の歌があります。
幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額田王歌一首
古尓 恋流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴済遊久(巻第二 111番)
額田王奉和歌一首 従倭京進入
古尓 恋良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰(巻第二 112番)
持統天皇の御世、吉野に行幸があった時に、つきそっていった弓削皇子が、額田王に歌を送ります。額田王はその歌に返歌をおくりました。
この返歌の題詞(万葉集では詞書の部分を題詞とよびます)に「和歌」という言葉がつかわれています(わたくしに下線をひいてみました)。しかしながら、ここでは、「和歌(ワカ)」と訓読しません。訓読文を『新大系』によって示してみます。
吉野宮に幸 したまひし時に、弓削皇子の、額田王に贈り与へし歌一首
古に恋ふる鳥かもゆづるはの御井 の上より鳴き渡り行く(巻第二 111番)
額田王の和 し奉りし歌一首 倭 の京より進 り入りたり
古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我が思へるごと(巻第二 112番)
和歌を、和するうたと読んでいます。あわせるということですね。
歌の内容としては、弓削皇子が、「亡き父君のいました昔を恋い慕う鳥なのか。ユズリハの樹のある御井の上を鳴きながら飛んでいく」と吉野から、額田王に歌を贈ります。飛鳥の都にいる額田王は、その歌をうけとって、こんな歌を詠みます。「昔を想うとあなたのおっしゃるその鳥は、ほととぎす。ひょっとしたら鳴いたのかもしれませんね、私が想っているように。」というもの。いかかがでしょうか。額田王は弓削皇子の歌に寄り添いつつ、歌を詠んでいることが分かるでしょうか。
すこしだけ、万葉の作品世界に入ってみましょう。この弓削皇子ですが、父君は天武天皇にあたります。天武天皇といえば壬申の乱ですね。天智天皇の後継者争いを契機とした壬申の乱まで、天武天皇(当時は大海人皇子)は吉野に宮を構えていたのでした。そこで子息の弓削皇子は吉野の昔というと、父君のことと解釈できます。
ここで、読者ははっと気が付きます。弓削皇子が歌を贈った相手は額田王です。額田王と天武天皇といえば次の名歌が思い出されます。
天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作りし歌
あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る(巻第一 20番)
皇太子の答へし御歌 〈明日香宮に宇御めたまひし天皇謚して天武天皇と曰ふ〉
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋めやも(巻第一 21番)
弓削皇子は、父君への想いを理解し、共感してくれる相手として、額田王に歌を贈ったのかもしれません。そして、額田王はそれにこたえる歌を詠んでいるのでした。
つまり、ここの和歌という言葉は相手の歌に応じる歌という意味で用いられているのですね。『万葉集』には、ほかにも和歌という言葉を題詞の用いる歌がありますが、すべてこの相手の歌に応じる歌という意味でつかわれています。
さて、ここで弓削皇子と額田王の歌をもうすこし考えてみます。弓削皇子が吉野へいって、こんなことがあったよ!と歌を贈る。そして、いいね!と歌を返す。なんだか、現代でもわかる感覚ではありませんか?
旅先で絵葉書を大切な人に贈る。もっと手軽に、旅先の写真をラインで送る。できごとを、大切なだれかと共有したい。そんな感情って、現代人はとってもわかると思うのです。ラインやツイッター、インスタの楽しみなんかは、和歌がすでに担ってきたものだといえます。(私の師匠もそんな話をよくします。)
そんな和する歌は、詠み手の今を表しているといえるでしょう。題詠とはまた異なる側面です。しかしながら、そんな詠み手の今にそくした歌はほとんど残りません。残っているのは、やり取りの中で、残したいという意図のもとに残されたものがほとんどだと思います。
★晴れの歌と褻の歌
さて、やっと、本題です。生活、というか、詠み手の今にそくした歌という側面が和歌にはあります。それは往々にして和する歌、すなわち人々と取り交わす歌なのでした。
古典和歌に、作品パフォーマンスとして仕上げる歌と、詠み手の今にそくした歌の二つをいちはやく見出したのは、近代歌人の窪田空穂でした。窪田空穂は国文学者でもあり、早稲田大学教授を歴任しました。早稲田の講義の中から、『古今和歌集』、『新古今集』の注釈書を出し、今でも参照される重要な国文学者です。ちなみにいうと、私の先生の先生の先生が窪田空穂にあたります。
窪田空穂が見出したのは、「文芸としての和歌」と、「実用としての和歌」でした。「実用の和歌」というのも、当時の貴族の恋愛には和歌が不可欠であり、おのずとそれは日常に不可欠のものであったのだといいます。たしかに、恋の歌は『古今和歌集』では約半分を占め、ほかの和歌作品も多く恋の歌をもちます。『源氏物語』だって、恋の和歌を持つ物語でなければ、古典になっていなかったかもしれません(源氏物語の享受は歌人とかかわりが深いのです)。そして、恋の歌といえば、贈答、すなわち和する歌が想定されます。
和歌とは何かを考えるとき、恋の場面での贈答歌は看過できないものなのでした。では歌を贈りあうとういう側面から和歌を考えていきましょう。
★和するということのサイン
愛の場面の歌といえば、『古事記』の次の場面を思い出す人も少なくないはずです。
伊邪那岐命の詔ひしく、「然らば吾と汝と是の天之御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひを為む」とのりたまひき。如此(かく)期(ちぎ)りて、乃ち詔ひしく、「汝は、右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」と詔りたまひき。約(ちぎ)り竟りて廻りし時に、伊邪那美命の先ず言はく「あなにやし、えをとこを」といひ、後に伊邪那岐命の言ひしく、「あなにやし、えをとめを」といひき。
国を作るためにはじめて降り立った男と女の神が、契りを結ぶ場面です。その時に、歌を交わします。ここでは女神の伊邪那美命が先に歌いかけています。『古事記』では、その後「女から歌いかけるのはよくない」ということが男神伊邪那岐命によって語られます。
ここも、詠み交わす恋愛の歌の萌芽とみてよいでしょう。歌が交わされることによって婚姻が成立するということ、そして、女が先に詠みかけるのは破格の行為であるということもわかります。(女が後というと、女の地位のほうが下という誤解を抱きやすいのですが、そうではないとだけ書いておきます)
歌を交わすという行為が、恋愛においてどれほど重要であったのか、これは『竹取物語』を読むと分かります。
竹から生まれたかぐや姫は、見る見るうちに美しく成長して、評判の令嬢となります。そこへ男たちがこぞって求婚をしますが、相手にしません。それでもあきらめきれない好きものの貴公子たちが五人残り、物語はかぐや姫の難題に苦心する五人の貴公子のエピソードへと展開していきます。
『竹取物語』も恋の物語ですが、かぐや姫の和歌はこの貴公子たちとの贈答と、帝の贈答しか出てきません。しかも、この貴公子たちとの和歌は、かぐや姫の難題に敗北した瞬間にやっと交わされます。ここらへんの話、ものすごく残酷でおもしろいので、ぜひ通して読んでもらいたいのですが、すこしご紹介します。
かぐや姫がサイコパスであることがよくわかるエピソードが阿倍の右大臣の難題です。彼は財力にまかせて、かぐや姫の欲しがった「火鼠の皮衣」を探しに行かせます。伝説の燃えない毛皮です。やっとのことで手に入り、こんな歌とともにかぐや姫の屋敷に急ぎます。手に入れた毛皮はたいそう美しいものでした。
かぎりなき思ひに焼けぬ皮衣袂かわきて今日こそは着め
思ひのひ、に火がかけられて、そんな火に焼けない伝説の衣。これまで思いがかなわず涙で袖を濡らしてきたが、今日こそはこの衣によって恋が成就し、私の着ている衣も涙でぬれることなく着ることができるだろうといっています。すごい自信ですね。
一方かぐや姫は衣を前にこんなことをいいます。「まあ、きれい。じゃ、燃やしてみましょう」。こんなに美しい毛皮を燃やすのは酷なものです。しかし、これは燃えない伝説の衣。きっと衣も、かぐや姫も手に入るはず。そう言い聞かせて火にくべたところ……あっけなく燃えちゃいました…笑。かぐや姫はこんな返歌をします。
名残りなく燃ゆと知りせば皮衣思ひのほかにおきて見ましを
あっけなく燃えるものとわかっていたら、毛皮が燃えないなど信じずにおきましたのに。火なんかにあたらないところにとっておきましたのに…(笑)。という歌を詠みます。なんともおそろしい。かぐや姫が月で犯した罪が分かるような気がします(笑)。
さて、ここからもわかるように、かぐや姫が返歌をしたのは貴公子が敗北した時なのでした。ここまでかたくなに彼女が歌を返さなかった理由を、鈴木日出男氏は倉持の皇子の例をみて次のように述べます。これは貴公子への返歌にいえることだと思われます。
これまで誰にも返歌したことないかぐや姫が、なぜここではじめて返歌をしたかが問題的である。彼女の返歌は、皇子の失敗で実際の関係が途切れてしまったことに保証されているのであろう。つまり、この段階にいたれば、どんなに歌を詠んでも皇子との結婚はありえぬと考えたからにちがいない。このことは逆からいえば、求婚の歌、ひいては贈答歌は、詠みあうことじたいに何がしかの連帯感情が形象されうるということ、少なくとも、歌では相手を拒むことができないということである。(『古代和歌史論』32頁)
歌の内容はともかくとして、歌をかわすという行為自体に、すでに心の通い合いがある。恋愛の段階として、歌のやり取りが行われる時点で、ある意味一つの成就ともいえるのです。かぐや姫が貴公子の敗北をもって歌を詠んだのは、もう恋愛関係になることはないという既成事実があったからと読むことができるのです。そう、和するとは一つの態度であって、それを無視することも一つの手段でした。逆に言うと、歌を和することができなければチャンスをつかむことはできないのですね。
★突き放す・挑発する女歌
歌の贈答という行為自体に意味があるということでしたが、では、恋愛における和歌の贈答は何を詠んでもよかったのでしょうか。男と女の和歌を読んでいくと、女の返歌がいつもツンツンしていることがわかります。その例として、『伊勢物語』第107段を読んでみましょう。
むかし、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、をさをさしからず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、書かせてやりけり。めでまどひにけり。さて、男のよめる。
つれづれのながめにまさる涙河袖のみひちて逢ふよしもなし
返し、例の、男、女にかはりて、
浅みこそ袖はひつらめ涙河身さへ流ると聞かばたのまむ
といへりければ、男いといたうめでて、今まで、巻きて文箱に入れてありとなむいふなる。
男、文おこせたり。得てのちのことなりけり。「雨の降りぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨は降らじ」といへりければ、例の、男、女にかはりてよみてやらす。
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとどに濡れて惑ひきにけり。
藤原敏行という男が、高貴な家の女に懸想したが、女はまだ和歌のことがわからなかったので、主人がほとんど考えてやり、やり取りができることとなりました。男の和歌は「あなたに会えず、物思いにふける眺めの長雨のようにしとしととめどなく降り落ちる涙とはいいますが、私は悲しみのあまり涙が川になって袖がぬれるばかりで、あなたが心を向けてくれないので会う手だてもありません」というもの。それに対してこんな歌を作ってやります。「いやいや、あなたの思いが浅いから、袖がぬれるんじゃありませんこと?袖がちょっと濡れるくらいじゃあねえ…涙が川になってご自分が流されるくらいだっていうのなら考えてもよろしくってよ」。…とっても強気。男は感激して、手紙を宝物にしました。そして、また、男が手紙をよこします。「雨がふってきたんで行こうか迷ってます。まあ、晴れていけるようになるかどうかは天にまかせますね」と、言い訳じみた手紙を送ってきたので、こんな歌を作ってやりました。「私のこと、ほんとに愛してくれているかなんか、そんなこと聞けないから…この雨にかけてみようとおもうんです。それでもきてくれるかどうか…。どんどん降ってますね…」。そうすると男は濡れるのも厭わず飛んでやってきましたとさというお話。
ここからわかることは、男が歌を詠みかけ、または、歌がなくとも男のふるまいや言葉が歌の契機となり、女はそれに反発する歌を詠むという、男女の歌のあり方が共有されていたということでしょう。高貴な家の主人が、代作にこのような歌をつくるというのは、貴族世界のなかでそのような歌のあり方が、貴族の男女コミュニケーションの前提にあったということを示しているように思われてなりません。つまり、和歌を交わすことが基礎教養として必要であったということと、女の歌はこのように詠むという共通認識が反映されて、こうした物語をあらしめているのでしょう。
★返歌によって成り立つ和歌
もう一つ、平安貴族のやり取りをみてみましょう。『古今集』時代の女性歌人に伊勢という人がいます。現存する彼女の歌集は、彼女の死後の成立したものではありますが、その中には伊勢の人生がドラマチックにわかるように歌が配列された(ただし、伊勢の人生そのものとするには難しい)部分があります。西本願寺本『伊勢集』からとりあげます。
『伊勢集』冒頭は、いい感じになっていた男が、ほかの女と結婚し、絶望した女のもとに男から歌が届いて贈答のやり取りをするというところから始まります。ここでは絶望が大きく、女は、都から親のいる大和に行こうと決意するところです。女はやはり男に歌を贈ってしまうのでした。
かく人のむこになりにければ、いまはとはじとおもひて、ありし大和にしばしあらむとおもひて、かくいひやりける
三輪の山いかにまちみむ年経ともたづぬる人もあらじとおもへば
びはのおとどの御かへし
唐土の吉野の山にこもるともおもはむ人に我おくれめや
この歌の返しをとこよみて奈良坂よりおこせける
伊勢はこんな歌を贈ります。「私は三輪山にいるわ、目印はあるから会いに来てね、という昔の歌があるけれど、そんな大和の三輪山で、待てるわけないよ。何年たっても来てくれる人はいないと、分かっているから。」この女心わかります?それにたいして男はこう答えます「え!?山!?君が海を越えて唐土の地のそのまた山奥の吉野の山奥みたいなところに行ったとしても、僕はどこまでも君といっしょだよ!?」……。どうですか…この男の返事、全然伊勢の気持ちわかってませんよね……。
この伊勢が踏まえたのは「我が庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門(古今集982番)」というもの。伊勢が、男の訪れを待つ伝承歌を踏まえて、それでも来ないであろう男の薄情さを訴えるのに対して、男は、あえて、恋の文脈を持つ三輪山ではなく、世を逃れるイメージをもつ吉野山にずらして歌を返すのです。遁世と無常の吉野山をいうことで、三輪山は、女が世をはかなんで籠るための、遁世のための山にかわってしまいます。恋の文脈、すなわち、女が訴えていた男の薄情さが無効となる歌となっています。こういう、かわすのがうまい人っていますよねえ…。
これらのやりとりで理解したいのは、贈る歌は、返す歌によって解釈が決まりうるということ。返歌は、贈られた歌の解釈の上に成り立っています。いいかえれば、返歌をする人が寄り添うか、突き放すか、贈答歌の主導権は、返歌する人にあるともいえます。和歌の贈答は時に、相手の解釈の隙を突き、また、問いかけをかわすといった、非常にスリリングなコミュニケーションであることがお分かりになることでしょう。
★源氏物語の贈答歌
このコミュニケーションを得意とするのが光源氏です。『源氏物語』では光源氏が言葉たくみに女をなだめる場面が多くみられます。彼が生きたのは、妻のほかに妾をもつ世界だったので、人間関係のバランスを保つスキルとして、歌が必要となったのでしょう。このことが最もよくわかるのが、「葵」における六条御息所との贈答歌です。
この巻の御息所といえば、賀茂社で勃発した、いわゆる車争いの場面ですね。葵祭りの前日、賀茂の神に仕える斎院があたらしく交替するということで、そのお浄めの儀式が行われることになりました。その儀式にはお供の者が必要で、今をときめく光源氏が、お供のメンバーに抜擢されて話題になったのですね。宮中から賀茂社へのパレードで、見に来ていた源氏の妻、葵上の召使いたちが、先に場所をとっていた、六条御息所の牛車をどかそうとして、六条御息所の召使いたちと乱闘騒ぎになった有名な場面です。六条御息所はお忍びで来ていたのに、このさわぎで世間に露見し、また牛車もぼろぼろにされて、大きな恥をかかされたのでした。
源氏の思いは増す一方で、そのショックは大きかったらしく、六条御息所は体調を崩してしまいました。源氏は源氏で妊娠中の葵上がいますから、なかなか六条御息所へは気が回りません。しかし、なんといっても高貴な方なので源氏は無下に扱うこともできません(物語の中で、ちゃんと六条御息所に対してはそれ相応の対応をしなさい、と源氏は父桐壷院に怒られています)。そんな中、源氏は「まあ、嫁のことはたいして気にしてないんですがね、ほっておいても大丈夫かなと思ってたんですが、様態が急変して苦しむものですから、ほっておくのもできませんで…」と、一方で苦しむ六条御息所とは一緒にいれないということを言い訳がましく手紙でいうのでした。六条御息所は、「また、いつもの言い訳ね」といいながらこんな歌を贈ります。
袖ぬるるこひぢとかつは知りながらおりたつ田子の身づからぞ憂き
袖濡るるとは恋の涙の象徴。「こひぢ」には恋路と子泥(こひぢ)がかけられます。「思い通りにならない、きっと泣くことになる泥沼の恋だとは分かっていながら、ドロドロになる田んぼにずぶずぶと入っていく田子(農夫)のようなわが身の情けなさよ…。あなたを好きでいると幸せになれない、そんなことはわかっているんです。わかっているんですよ。でも……。」こんなことを言われても、なんと答えたら正解なのか、私は今でもわかりません…(笑)。
恋愛って、その渦中にいるとどうしようもなくなるときがありますよね。六条御息所は賢明な方だったので、自分がその状態にあることも、よくよくわかっていたと思います。もう源氏との関係は終わりにしよう、終わりにしよう、彼女はこの巻冒頭からずっと言い続けています。けれど、できない。もう彼女には、源氏にこんな歌を贈るしか、できることはなかったんじゃないかなあ…。
さて、そんなヘビーな歌を投げかけられて源氏はどのような返歌をしたのでしょう。
袖のみ濡るるやいかに。深からぬ御ことになむ。
浅みにや人はおりたつわがかたは身もそぼつまで深きこひぢを
「濡れるのは袖だけですか??それは思いが深いことにはならないでしょう」といいながら、「あなたは私への思いがそんなに深くないから、泥沼といえど人が立っていられるのです。私なんか、あなたへの思いが強すぎて、身体全体がすっぽり埋まるくらいの本気の恋してますよ」といいます。
これも、ヘンなマウント合戦にしていますね。私が六条御息所の親友なら、ちゃんとむきあって!!!!と源氏に激怒のラインをおくるとおもいます。
で、これがほんとうに不誠実な(笑)というか、スキルフルなかわし方だなあと思うのは、思いの浅さ深さの話へ持って行っているところだと思います。私のほうが身体がどうにかなるくらいあなたのことを強く思ってるよ。これどこかで聞いた覚えはありませんか?そうです。『伊勢物語』107段の話ですよね。こまったちゃんな贈歌を、有名な典拠をもって返す。いわば、公式通りの返事をして、(ほぼ無理やり)定石の恋のやり取りへと話をずらすのです。二人の間に響く不協和音がなんとも物悲しいですね…。悲劇はこの後起きます・・・。
『源氏物語』の和歌をみてみましたが、人間関係の中に生まれる和歌は、このようなスリリングなやり取りが見いだせます。相手の歌に応じるか、その解釈の隙をついてみるか、話をそらして別の文脈にするか、相手の歌をうけとり、読むことで、自分の歌が作られるという歌の営みが見えるのではないでしょうか。
★寄り添い、ずらし、広げる世界―連歌
さて、そんな『源氏物語』の和歌を見ていきましたが、とても印象に残っている出来事があります。連歌で著名な先生が、源氏に関するある学会の発表で、『源氏物語』の和歌をみていると、まるで連歌のようですね、とご発言されたのです。そのとき、私ははっとしました。
私は、大阪平野の杭全神社というところで、連歌をする人々(連衆)の中にいれてもらって、連歌の実作も勉強しているのですが、連歌の営みもまさに、他者の句を鑑賞するところからはじまります。
連歌とは、575の上の句を誰かが作り、77の下の句を別の人が作るという営みです。かつては、575、77で一首の完成をめざすもの(短連歌)だったようですが、一般的に呼ばれる連歌は575→77→575→77→575→…というように、複数回おこなって、句をある一定の数になるまで付けていく営み(長連歌・鎖連歌)のことをいいます。正式には百句が1セット(百韻)となり、それを束ねて千句にしたり、かつては一万句にしたりしたそうです。いまは、百句1セットよりも、四十四句1セット(世吉、よよしといいます)や、三十六句1セット(歌仙といいます)で行われるのが多いようです。
この面白さは、なんといっても完成作品が全く想像できないことにあります。ある一句にたいして、各々が様々な解釈のもと、自分の表現の壁を乗り越えて、一句をひねり出します。そして、その一句をまた各々が解釈して一句がつけられていく。
ただし、これは言葉をつないでいくしりとりでもそうですが、何でもありにすると、無限に堂々めぐりしておもしろくなくなる恐れがあります。りんご→ゴリラ→ラッパ→パリ→りんご→ゴリラ→ラッパ→パリ→りんご→ゴリラ→ラッパ→パリ→りんご→ゴリラ→ラッパ→パリ→…。楽でいいけど全然たのしくない…。
それを防ぐために、様々なルールがあります。これを式目といいます。いろいろなきまりがあるのですが、結局、堂々巡りをしないようにするためのものという理解でいいようです。でも、せっかくルールをつくったのだから、やるならガチでやりましょう、ということで、一度句に詠まれた事物をもう一度出すときにはさまざまな制約をつけるようになりました。これが式目をちょっとややこしくさせている一つの原因かなあ、とぼんやりかんがえています。
連歌は懐紙を横長に折ったものに書かれていきます。なので、いろいろな連歌のきまりや成り立ちもこのメディアに依存した作りになっています。なんでもそうですが、歴史的に考えるときには、その現物がわからないといけないのですね。
折った懐紙の表と裏をつかいます。しかし、百句も書くとなると到底一枚では足りないので、4枚用意します。一枚目の表には句のほかに情報も書くので(たとえば「賦何人連歌 文和四年四月廿五日 於二条殿」みたいに)あんまりかけません。一枚目(初折といいます)の表面には八句書かれます。その裏は句だけでいいので十四句。以下四枚目の表面まで同様です。14×(1+2×2+1)+8=92 なので、四枚目(四枚目は名残折といいます)の裏は八句。世吉が四十四句なのは、初折と名残折の二枚裏表だけでやるということなんですね。
さて、ものが準備できたら、なにも考えずに句をつけていくのもいいのですが、ここは文芸の世界。ここではこういう句ができたらいいなあという理念があります。
まず一句目。これは発句といって、俳句のご先祖様ですよね。百句の作品をみんなでつくる出発点です。ここは気合がはいります。この後77がつけられる句ですが、それにたよった句になってはいけない、といいます。一句で立ち上がるものとせよ、と昔からいわれているところです。多くの場合切れ字が用いられます。
そして大事なのは、ここから、この瞬間、この場所で、世界が開かれることを宣言するように、発句では、連歌の座が行われる場と時節を詠みこむものとされます。そう、ここで一句、はここからはじまるのです。
連歌は中世の文芸ですが、中世発の日本文化といえばお茶の世界でしょう。連歌と茶道という、会席の作法をもつものは似ているところがあります。それは正客と亭主という考え方です。お茶席に行くと、いつも正客(お席の一番奥)に誰が座るか、譲り合いが発生してヒエエとなりますね(笑)。連歌にもそのような意識が導入されていて、発句は正客が、そして、次の脇句は亭主が発句に寄り添うように詠むという流れがあるのです。
たとえば、「賦何人連歌 文和四年四月廿五日 於二条殿」を見てみましょう。かの有名な二条良基の邸宅で、良基のお師匠の救済ほか、その一門と行われたものです。
名は高く声はうへなし郭公 侍(救済のこと)
しげる木ながら皆松の風 御(良基のこと)
四月なので、季節は夏。ほととぎすの季節です。名は高く声は上なし、絶好のロケーションやないか、という意味です。ここは良基の邸宅。今この場所、この瞬間を詠み、亭主の邸宅を寿ぎます。
一方、亭主の良基は、拙宅のぼさぼさな庭ではございますが、あそこの松の木々にふく風がこころよく、ほととぎすの声を一層ひきたてておりますね、と付けます。発句によりそって、救済が詠んだ場所の句を付けていますね。
でも、一生このやりとりが続くとなんだか足がしびれてきます(笑)。第三句目から世界が開かれていきます。
しげる木ながら皆松の風 御(良基のこと)
山陰は涼しき水の流れ来て 文
貴族の邸宅から、目の前がいっきに山紫水明の世界に様変わりしました。こうして世界を展開させ、できるだけ同じ世界観ができないように次々に句を付けていきます。
ただし、展開は飛躍ということ。飛躍は想像力のエネルギーがとても必要なところで、いわば、魅せ場になります。魅せ場はいつもあるものではありません。連歌は一句一句が作品であると同時に、完成された句の集成も作品です。その塩梅をつねに意識しなければ、作品にはならないのです。しかし、予定調和がないようにできている以上、なかなかそれはうまくいきません。そこで、各々の句を監督する人が必要になります。それが宗匠です。
連歌というと、順番に句が回ってきて、できなければ、一生帰れないというイメージがありますが(笑)。ずっとそうしているわけではありません。ある程度その順番制が終わると、自由に句を募集するスタイルになっていきます。宗匠は全体の調和を考えつつ、出された句を採否していきます。
連歌には、はじけるところと、おさえて粛々とつけるところがあります。序破急で説明されるのですが、私はこれと、お能のイメージがぴったりあうなあと、つくづく思います。お能にもいろいろありますが、オーソドックスなものは、途中でものすごく動きのないところがでてきて、辛くなり、寝てる人もいる(笑)。でもだんだんと盛り上がってきて、とってもおもしろい!となる。中世ってそういう世界なんでしょうかね。
付ける側は、いっせいに作るものですから、大変です。前の句に付けることができ、調和もとれて、そして、次の人が付けやすい解釈の余地のあるものを作らねばならない。
しかし、その句にまた新しく句が付いたら、その句をもとにまた考え直さねばならない…。前の句にどれほどよりそうか、そしてこれまでの句とイメージがかぶらないようにどれほどずらすか、そのたびごとに考えていくのです。これはたしかに、和歌を詠みかわす営みと同じですね。
★言葉を受け取るということ
さて、ここまで、歌をうけとめ、歌を詠むということを中心に、いろいろと寄り道をしながらお話をしてまいりました。深い話ができたか、そもそも深い考察ができているか、大変心もとないのですが、私が今のところかんがえている和歌とはこのようなものです。
言葉によって表現をする、というと、一方通行のものと思いがちです。しかし、古典の世界の歌の営みは、儀礼の場でともに詠まれたり、蓄積された秩序の世界とつながるものであったり、言葉を受け止めるところからはじまるものであったりするのではないか、と考えています。これって、とっても豊かな世界ですよね。
現代社会に目を向けてみると、あいもかわらず隙だらけの言葉が行きかっていますね(私の文章がまさにそうです)。こんな言葉たちをみて、和歌の世界の人たちは何をいうだろう、と考えることがあります。これも一つの楽しみとするだろうな、と思うのです。
発信が世界規模になったことで、さまざまな発言が責任のいるものとなっていますが、言葉は受け取り手によって、寄り添うことも、意地悪に解釈することもできます。古典の世界の人はこのことに気づいていたのだと思います。だから、これを逆手にとってコミュニケーションの手段としたのでしょう。三輪山に行っちゃうよ?といわれていやいやこちらは唐土吉野山って本気で言ったり、泥沼の恋から抜けられないのといわれて、いやいや私は溺れるくらいはまっているよと本気で言ったりはしないのです。
たしかに、投げかけられた言葉に向き合わず、自分の都合のいいようにもっていくというのは、不誠実かもしれません。けれども、それをするとき、彼らは言葉をずらして意地悪に解釈したということには自覚的なのです。
自分の言葉によるコミュニケーションを振り返るとき、無自覚に言葉をずらして解釈していないだろうかと、不安になることがあります。投げかけられた言葉に寄り添うとき、ずらして自分の都合のいい方向へ持って行くとき、少なくともそれは自覚的でありたいな、と思うこのごろです。
なんだか説教くさくなっちゃいましたね・・・(笑)。
春からここまで楽しく書くことができました。もう冬ですね。
ありがとうございました。
では、ごきげんよう。
【参考文献】
山田孝雄『連歌概説』岩波書店1937年
窪田空穂『古今和歌集評釈』東京堂書店1960年
伊地知鉄男『連歌の世界』吉川弘文館1967年
上野理『後拾遺集前後』笠間書院1976年
石田譲二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語二』新潮社1977年
野口元大校注『新潮日本古典集成 竹取物語』新潮社1979年
島津忠夫校注『新潮日本古典集成 連歌集』新潮社1979年
鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会1990年
杭全神社編『平野法楽連歌 過去と現在』和泉書院1993年
小島憲之ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 萬葉集1』小学館1994年
片桐洋一・福井貞助ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』小学館1994年
山口佳紀ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 古事記』小学館1997年
佐竹昭広ほか校注『新日本古典文学大系 万葉集一』岩波書店1999年
久保木哲夫『折の文学 平安和歌文学論』笠間書院2007年
窪田空穂記念館『窪田空穂と早稲田 : 国文学者・教育者空穂 平成23年度窪田空穂記念館企画展』2011年
鈴木元『つける』新典社2012年
柳井滋ほか校注『源氏物語二』岩波文庫2017年
※和歌の引用は『万葉集』については岩波書店の『新大系』を、それ以外の和歌については日本文学web図書館の『新編国歌大観』、私家集については『新編私家集大成』をもとに、読みやすいよう表記を改めたところもあります。連歌は『新潮古典集成』を、また、散文作品は小学館の『新編全集』によりますが、『源氏物語』については『岩波文庫』も参照しました。