ろくじょうのやすみところ(4)
歌の向こう側
―中世和歌と中古の和歌のアプローチ
御手洗靖大
★前回の振り返りから
前回のお話は、源実朝の和歌を取り上げて、実朝の和歌が作られていくプロセスをちょっとだけ想像してみようというのがテーマでした。今回はもっと掘り下げて、和歌を読むアプローチを考えてみます。前回の末尾に、私は次のようなことを述べました。
和歌を詠むとはどうしても作品の再生産となります。この点についてはこの連載のどこかで書くと思いますが、そこで用いられるのが和歌のことばです。このことばは、知の蓄積といえるでしょう。私も冷泉家では、題の中で用いるべきことばを必ず習います。そのことばによって一首が作られるのですが、やはり分からないことばは使えません。作れたとしても、やはりそのことばだけのための歌となって、おもしろくない。
その点、実朝はこれまで用いられてきた表現を組み合わせ、一首の歌として完成させる、まとめあげる力がめちゃくちゃあります。それにはことばを使いこなす力と、概念を歌のかたちにする力がないとできません。子規をして、歌の独自性を評価せしめたのはそこにあると言えます。ことばを編み上げ、またあらたな生き物のように一首を「本領屹然」と立ち上がらせる力はそこにあるのではないか、と、ここまでのプロセスをちょっとだけ飛躍させて結論づけてみます。なんだか実朝の歌を読んでいると、歌をつくるとはなにか考えさせられますね。皆さんもぜひ考えてみてください。
実朝の四季の歌一首を手がかりに、上のようなことを考えたのでした。実朝の四季の歌には、子規の言うような独自性がホントにあるの?と言われると、子規の理想とするような歌の作り方はしていない、というのが前回の結論です。
風景の歌を詠む時、皆さんはどのような状況をイメージするでしょうか。
もっともありがちなイメージは、いわゆる「ここで一句」というやつでしょう。つまり、感動的な情景に接して、その実感を元に、自分の表現によって渾身の一首をその場で詠む、というもの。たしかに、和歌には、即興で詠まれる場があったというのが第一回と第二回のお話でした。その点では、「ここで一句」というような考え方も無いとはいえません。しかしながら、和歌を詠む人が見ている風景について考えると、多くの場合、それは類型的なイメージの世界でした。
この、類型的なイメージは、題というもので整理され、歌が詠まれる契機となっていきます。つまり、「じゃあ、これから和歌でも詠むか。題はこれ。このイメージで作ってみて!」と言われて多くの歌が作られるのです。
例えば、源実朝の『金槐和歌集(定家所伝本)』四季の部を見てみると、ほとんどが漢字の熟語だったり「~をよめる」となっていたりして、詠むべき対象(内容までも)が規定されています。つまり、四季の歌はほとんど題詠なんじゃないか、と私は考えています。
では、そのような和歌は、本当に作品の再生産でしかないのでしょうか?
★中世和歌の向こう側にみえる人間
実朝は、蓄積された類型的な世界の言葉を選び取り、それを表現した。実はそこに、意味があるんじゃないか。前回申し上げたのはそういうことだったんです。もっと言うと、言葉を選び取り表現する営み自体に、源実朝という人間がありありとあらわれるのではないかということです。だから私は前回、実朝が『古今和歌集』を読んでいた可能性を指摘し、藤原定家と実朝との関係性を確認したのでした。表現が源実朝という人間に回帰するのです。
子規が見ようとしたのは、歌の向こう側にある、このような実朝自身だったのではないでしょうか。ちょっとこなれた言い方をすると、そこに和歌の個性、私性を見いだそうとしたのではないか。
よく、近現代短歌と、和歌の相違を語るときに、和歌には「われ」、すなわち私性が無いのだといわれます。しかし、少なくとも源実朝には、みられると思われます。ただし、近現代短歌とことなる形で・・・。
これは、源実朝だけでなく、彼の生きた時代の和歌に言えることでもあるようです。この時代は鎌倉時代初期。文学史の用語で言うと中世にあたります。中世の和歌の基本的な考え方を、渡部泰明『中世和歌史論』(岩波書店2017年)の序章を読んで考えてみましょう。ちょっと難しいかもしれませんが、引用します。(ムツカシイという方は飛ばして、後から読んでください)
中世和歌は、古代和歌において生み出されたさまざまな表現を貪欲に継承しようとした。歴史的な遺産を相続していることが、彼らの活動の根拠であった。だから中世に初めて創造された表現だけをその特徴と認めようとしても、事柄の一部しか捉えられない。中世歌人たちは、古き時代の和歌に「ならう」ことを自己の出発点にしている。彼らの独自性は、そうした過去の表現を我がものとして取り込んでいく過程に見出されなければならない。その過程を様式化として捉えたい。
大量に及ぶ過去の作品を受け継ごうとするとき、それを整理し、類型化しようとするのは、。ごく自然の営みである。のみならず中世歌人は、ある組織だったまとまりとして、時には秩序を持った体系として受け取ろうとした。中世の和歌活動の特色の一つに、歌論・歌学の量産が挙げられるが、それらは、一つの歌詞や一首の和歌をそれ一個のものにとどめず、いかに和歌世界の中に位置づけたらよいかという関心に貫かれている。個別の表現が、個別を超えた総体への意識を促し、その意識がまた個別性に意味を付与するという往還こそ、様式の要件といってよいだろう。様式においては、個と普遍が表裏一体のものとして、同時に成り立つのである。とりわけ本書では、様式を内面化しようとする様式意識をとくに重視したい。創作行為を行う歌人主体に即して考えたいからである。(渡部泰明『中世和歌史論』2頁)
渡部氏は中世和歌を「様式化の浸透」という言葉で考えます。様式とは「類型的な性格をもつ表現のあり方」という意味だそうです。歌が型によってつくられるようになるってことでしょうか。もっとわかりやすく言って欲しいですね笑。
中世の時代になると、和歌を詠む前に、これまでの和歌をまずは読む必要が出てくる。そして先人の和歌を、型として自分の中にインプットして、そこから和歌をアウトプットする。このインプットのしかたが、多くの場合、システマティックにできあがっている。それが中世の時代であった。和歌を詠むための修行にちゃんとレールが敷いてあったんですね。その具体的な形が題であった、ってことですね。ここらへんは先ほど実朝の歌をみて申し上げたことと同じです。
さて、ここからがおもしろいところです。渡部氏は、中世和歌の営みには、多くの歌をとりまとめ、世界観をつくるという意識もあったようです。類型にそって歌を作ることが、和歌の歴史に参画する行為であり、自分の表現が、蓄積された和歌の世界とつながるのです。そして自らもまた、和歌によって世界を作り出すのだと言います。
和歌の様式化の浸透について、具体的に見てみよう。まず注意したいのは、中世和歌の現象面の特徴としてしばしば挙げられる、題詠の発達である。中世和歌の詠歌機会の主流が題詠であり、題詠が様式と深くかかわることは、いまさら言うまでもないことだろう。題そのものが、それが表す題材に対するある程度類型的な表現を前提とするが、その題詠が積み重ねられることで、「題意・題の心」などとして、題に対する詠み方も骨法が定まり、様式化されていく。
題詠と合わせ考えるべきは、中世における定数歌の盛行である。定数歌は、その多くが題詠であり、百首歌をはじめとして、中世における基本的な詠歌形式であった。勅撰集撰進を前提としての応制百首を筆頭に、歌会や歌合も、定数歌と事改めて言うことは少ないが、一首なり十首なり、定まった数の和歌を詠むよう指定されるのが原則である。何らかの構成意識をもって、ある程度まとまった数の和歌を集合させることに意義を見出す、という意識が背後に想定される。応制百首のように勅撰集の組織を模す体系立ったものなどはその典型である。そこまで整然としていなくても、和歌を集合させようとするとき、和歌に付随する秩序や体系への意識が、濃淡の差はあれ働いたはずである。そうした意識が存在しなければ、とくに室町時代前期まで、あれほどの情熱を傾けて、さまざまな撰集事業が行われる―それも中世和歌の一特徴である―ことはなかったであろう。中世の定数歌や撰集行為にも、様式化の浸透は明らかに看取されるのである。和歌は、あるいは和歌の言葉は、複数の集合体となって、秩序ある世界を形成するはずだという確信。逆に言えば、一首の歌でも、一片の歌語でさえも、秩序だった世界の一端を担いうるという信念。そのような意識が、中世の様式の基盤に育っていた。(同書 3頁)
言葉を選び取って歌を詠み、その歌をとりまとめるという意識。とくに、歌を詠んだ本人がその歌の数々をとりまとめるとき、どの歌を選び、どこに並べるかという意識があらわれるはずです。中世の和歌は、家集(一人の歌人による前近代の歌集はこのように書きます)にならべられた歌の向こう側にも、並べた人間が見えてくると言うわけです。
この渡部氏の見解は、中世和歌研究者に共有されている考え方のようです。例えば、私の師匠は、学会発表にあたって、「藤原定家最晩年の感懐 ―『名号七字十題和歌』の述懐歌から」(兼築信行 和歌文学会関西7月例会)という題目をたてました。『名号七字十題和歌』という一連の定家の歌の集成から、最晩年の藤原定家が(約800年前の80近い爺さんが)何を考えていたのかということに迫るというものです。これも、歌の向こう側に定家という人間を見いだそうというアプローチです。中世和歌はこれが可能であるということでしょう。
★題によって変容する作中主体と、確たる「わたし」
ところで、私は、「歌の向こう側に見える人間」という言い方をしていますが、これは必ずしも作者と同一であるとは言えません。これも渡部氏が論じられているので、詳しくは先ほどの著書にくわえて、岩波文庫の『和歌とは何か』(岩波書店2009年)を読んでみるとよいと思いますが、せっかくなので実例をあげて考えてみましょう。百人一首に、ぴったりの歌があります。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶる事の弱りもぞする(式子内親王 89番)
恋心が露見するくらいなら、命よ、絶えてしまえ、という非常に激しくリアルな歌ですね。式子内親王は神に仕える斎院で、恋はしません。しかし、そのような作者像と、この歌から、ヤバい恋をしてるんじゃないかという解釈がうまれ、能の「定家」(https://www.nippon.com/ja/views/b02802/)という愛欲の物語までできました。
しかしながら、この歌は『新古今和歌集』をみると、「百首歌の中に、忍恋を」という詠歌状況の説明が書かれています。つまり、「忍恋というコンセプトで歌を作ろう」という意識の結果、できあがったものだったことが分かるのです。
さらにいうと、この、「忍恋」とは、恋の歌でも、男性のふるまいの歌として詠まれてきたものでした。深窓の姫君は男の情報など入ってきません。様々なうわさや、垣間見によって男は女に懸想をするというのが、和歌の公式であり、恋の作法でした。
そうなると、式子内親王は、題によって、社会での振る舞いを決める性別(ジェンダー)を越境しつつ、和歌の上でリアリティたっぷりに演じてふるまっている事が分かります。(参考 後藤祥子「女流による男歌―式子内親王歌への一視点―」『平安文学論集』風間書房1992年所収)そうなると、実感を重視する近代短歌の人たちは「なんだ、うそじゃねえか」というかもしれません。幻想をこわしてごめんね。
ただし、「演じる・ふるまい」という言葉遣いも、その歌を詠む作者のジェンダーが明らかであるからこそ言えることです。つまり、ここでも出発点は歌の向こうに人間が見えるということだと分かります。中世和歌は確たる「わたし」があるといえるでしょう。
★「わたし」のあった時代、よく分からない時代
和歌の「わたし」については、万葉集にそれを見いだした、佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』(角川選書2007年)があります。
そこでは、万葉集に比べて、その後の勅撰集には一人称を意味する「われ」を詠み込こむ歌が少ないことを指摘して次のように分析します。
万葉集と勅撰集の〈われ〉の数の大きな差異は何に拠るのか。勅撰集の時代になると、〈われ〉の表出は控えるべきだという雰囲気が醸成される。九〇〇年代初頭に成立した『古今集』。貴族社会が安定しはじめると、様式、秩序が美の基準として尊重されるようになり、異質なもの、目立つものが排除される。図式化すれば、そういう方向へ社会全体が大きく展開してゆく。個性とか自己表現とかは、様式美という大枠の前ではささやかな相対的な意味しか持ちえなくなった。
もちろん、その時代を現に生きた人々には、それぞれの個性や持ち味の差異、時代的な新しさ等が見えていたにちかいないのだが、私たちから見ると画一性ばかりが目について、個性の差異はほとんど見えない。(佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』43頁)
幸綱先生が見ていたのは万葉の時代でした。近現代短歌と万葉集の間にある短歌形式の表現として勅撰集の和歌を取り上げています。著書では万葉集が主軸となっているので、その対立項として、和歌というものを考えているのでしょう。ここでは幸綱先生の大まかな把握をもうすこし掘り下げて考えます。
今まで見てきたように、中世の和歌には、『万葉集』のように、歌の中にはっきりと「われ(歌の中にいる、かならずしも作者とはかぎらない存在)」はあらわれないが、構造として、和歌の向こうに「われ」がいるのです。言い換えると、中世の和歌を読み解こうとするとき、実は、歌のむこうがわにいる「われ」を引きずり出そうとしているのでした。(そう、引っ張れば、歌の向こう側の人間がでてくる可能性を持っている。)
では、この佐佐木幸綱の見解とはちがって、和歌には、見えないときもあるけれど「われ」があるものなのか、というと、そう簡単に言えるものではありません。
実は、和歌に「われ」がみえなくなる時代があります。それが、中古の時代の和歌です。
中古とは、文学史の時代区分です。古代と中世の間にある、平安時代前・中期の時代をさすのが一般的な理解です。この時代の和歌をどう呼ぶか、いろいろ迷ったんですが、なかなかいい用語が思いつかないので、しぶしぶ中古の和歌と言っておきます。おおまかなイメージとしては、いわゆる「国風文化の時代」前後(これも苦肉の策の言い方です・・・)と思っておいてください。(『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』なんかの時代です。)
中古の和歌の象徴な存在は小野小町といえるでしょう。彼女の歌はここまでみてきた歌・歌人とは全く違ったアプローチで見なければなりません。
小野小町といえば、世界三大美人(ほんまかいな)で最も知られた人物であると思われます。その美貌ゆえにモテすぎたものの、老いとともに男に捨てられ、ついには陸奥の野原にしゃれこうべの姿で発見された(ほんまかいな)という話を知っている方も居るかも知れません。
しかしながら、その生没年、出自、何をしていた人なのか、これらを探る確たる手がかりはほとんどありません。歌人の実態を考える時は、様々な歴史の記録を読むのですが、その記録すら怪しいものとなっています。(例えば、系図の本によってお父ちゃんが異なり、そのお父ちゃんも実態が怪しいという・・・。)小野小町は誰なのか。その実態を探るということが、ほとんど不可能となっているのです。姿が見えない存在です。
一応、国家的事業で作られた『古今和歌集』の中に、『古今和歌集』成立当時に生存していた人との歌のやりとりが残っているので、『古今和歌集』の小町の歌は小町が詠んだ歌ということになっています(なんか変な言い方ですね笑)。
しかしながら、小野小町の生きた時代よりも後に、小町の歌を集めてできた私家集『小町集』には、『古今和歌集』で詠み人知らずとされている歌や、ほんまに詠んだんかいな?といった歌が入っています。他人が撰んで作り上げた家集なんですね。しかし、小町という人物が確たる存在として見えない以上、どれが小町の歌でどれが違うかというアプローチはナンセンスです。
ここで考えなければならないのは、『小町集』において、どのような小町像を描かれているかということでしょう。目の前にある歌をそのまま受け取る必要があるのです。
ちょっとだけ『小町集』をみてみましょうね。『小町集』の写本は大きく三種類に分けられます。三種類ごとに、歌の並びも中の歌も同じではないので難しいですが、今回は最も流通して読まれた本文(新編私家集大成所収、正保版本)でみてみましょうか。その冒頭は次のようになります。
花をながめて
花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに(1番)
ある人心かはりて見えじに
心からうきたる舟にのりそめてひと日も波にぬれぬ日ぞなき(2番)
一番はいわずとしれた百人一首の歌ですね。花をながめて詠んだとありますが、次の歌とのつながりで、移ろいゆく(魅力がすたれてゆく)我が身を詠んだ歌だな、と読みたくなります。二番歌は、ふられた嘆きの歌ですね。浮き舟と、つらいという意味の「憂き」をかけ、そして浮き舟の不安定なイメージを、揺れ動く心とうまくマッチさせます。波に激しく揺れ動く浮き舟に乗っていて水浸しであるというイメージのまま、実際に袖もぬれている(泣かされる)日々をうたっています。うまいですね。
では、この歌集の末尾はどうか。
あはれてふことの葉ことにをく露は むかしをこふる涙なりけり(109番)
山里は物のわひしき事こそあれ 世のうきよりは住よかりけり(110番)
「あはれ」と思う言葉の葉っぱにおく露は、昔はこんなこと言ってくれたのにねって泣く涙なんですね。恋人からかけられたどんなにステキな言葉も、二人の関係が過去となった今からすれば、それには涙がつきまとうものなのね・・・。と109番でいい、110番では、山里は人も来ないし寂しい思いをするところなんだろうけども、恋がうまくいかなくなったときのむなしさ切なさよりは生きやすいでしょ。と詠みます。
ここからわかることは、人の心のうつろいと、それに取り残される一人の孤独な私というイメージが、歌の登場人物(こういうのを作中主体と呼ぶ人もいます)についてまわるということですね。この歌集では、これらの歌の主人公を小野小町として、忘れられる小町像をつくったのではないかと考えたくなります(まあ、ホントは全部の歌の吟味が必要なんですけど)。
小野小町の人生は様々に伝説・説話化されました。その最期は、さきほど申し上げたように、人々から忘れられ、頭蓋骨で発見されるという話にまでなっていきます。ここまでくるとさすがに伝説でしょう、となりますが、みなさん、どうでしょうか。もうこの『小町集』にその萌芽がみえないでしょうか?
『小町集』が作られたのは小野小町が生きた一時代後と言われていますが、もうすでに説話となる小町像のようなものができているように思います。
小野小町をみて、次のようなことが分かるのではないでしょうか。つまり、小町の歌には、歌の向こう側に確たる人間が見えないが、歌の向こう側にいる人間を、作ろうとする読みの営みは存在する、と。
これは中世和歌とは逆のアプローチでしょう。その大きな要因は、歌人の実在が確たるものでは無い、もしくは証拠が残っていないからですが、これもこれで重要であるように思います。このような人間が詠んだとされる歌も、和歌の世界とつながっているのですから。
和歌の主体というものを考えたとき、おおまかに和歌とひとくくりには、なかなかできないことが分かりました。短歌の側からみると、ややもすれば、小町の歌も実朝も歌も、近現代短歌ではない和歌と、まとめて考えてしまいますが、この両者は、歌の営みからして異なるものなのかもしれないのです。あまりに違いを見てしまうと、分断を生むばかりですが、和歌とは何かを考える時、このことは重要であるとおもいます。
今回は、和歌の向こう側に見える人間というものを軸にして、中世和歌と中古の和歌の考え方の違いに迫ってみました。歌の向こう側にいる人間を考えると、時代ごとに異なる和歌の様相が見えてきたように思います。ちなみに私はこのアプローチで、ある人の和歌を見ようとしています。形にして皆さんに見てもらえるように、がんばりますね。(原稿執筆の今日から夏休みでした)
今日もお話がすぎました・・・。お相手くださりありがとうございました。次回が最終回です。では、ごきげんよう。
【主要参考文献】(言及できなかったものも含む)
片桐洋一『小野小町追跡』笠間書院 1975年
鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会 1990年
関根慶子博士頌賀会 編『平安文学論集』風間書房 1992年
浅田徹『百首歌 祈りと象徴』臨川書店 1999年
渡部泰明『和歌とは何か』岩波文庫 2009年
佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』角川選書 2007年
ハルオ・シラネほか『世界へ開く和歌 言語・共同体・ジェンダー』
勉誠出版 2012年
安藤宏ほか『読解講義 日本文学の表現機構』 2014年
渡部泰明『中世和歌史論』岩波書店 2017年
※ 和歌の引用は日本文学web図書館の『新編国歌大観』、私家集については『新編私家集大成』をもとに、読みやすいよう表記を改めたところもあります。