ろくじょうのやすみところ(3)
和歌を読み、歌を詠むとは
―源実朝の方法
御手洗靖大
青空も夏らしくなってまいりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は春から東京で大学院生活ですが、意外と東京は緑が多いことを感じます。鬱蒼と茂る木々の緑を昔の人は「木の下闇」と表現しました。私の好きな言葉です。不気味なくらい暗い緑の世界、昔の人はそこに異世界を見たのかもしれません。
夏恋
さつき山木の下闇の暗ければおのれ惑ひて鳴くほととぎす
(『金槐集』509番)
(※以下、『金槐和歌集』は貞享版本(岩波文庫の底本)の歌番号を用いています。)
五月の山の鬱蒼と茂る木々、昼なのに緑が濃すぎて暗いので、闇に惑うほととぎすが鳴いている。今回はこの一首をじっくり読みながら和歌を詠むということを考えてみたいと思います。
そういえば、ほととぎすは、夏の象徴だけでなく、死後の世界と交流する鳥でもありました。
亡き人の宿に通はばほととぎすかけて音にのみ泣くと告げなむ(『古今集』哀傷歌・855番)
そんな鳥であるほととぎすでさえ、惑うような闇の世界。自然への畏怖というものが身近にあったのかもしれませんね。
ところで、この実朝の歌はどういう状況で詠まれたのでしょう? 歌の前に「夏恋」とありますね。これを詞書(ことばがき)といいます。歌の読まれた事情が書かれています。これによると、「夏の恋といえば?」というお題で詠まれた歌だということがわかりますね。この歌のどういうところが恋の歌なのか、読み取ってみましょう。
「さつき山」とは五月の山ということで、夏の山の様子です。昔と今とでは、カレンダーが異なるので、古典の世界の五月は今の五月よりも一か月半くらい先の季節になります。ちょうど梅雨時の、苔が美しい季節ですね。そして、「木の下闇の暗ければ」、木々は鬱蒼と茂ります。「暗ければ」という言い方は、現代の言い方だと、「~したら」となりますが、古文では「~なので」となります。この場面は五月で木々が鬱蒼と茂っているんですよーということを教えてくれる言い方です。
では、「おのれ惑ひて」って、なんでしょう?これはほかの和歌にはない実朝独自の表現のようです。むずかしいですね。こういう時は助詞を補ってみましょう。
「おのれが惑ひて」なら、鬱蒼とした山の中を、(迷い込んだ人ではなく)山に住んでいるはずのほととぎす自身が迷ってしまった、という意味になりますね。こうすれば、上の句の「暗ければ(くらいので)」とうまくつながります。おっちょこちょいの鳥さんですね(笑)
あれ、でもそうすると恋の歌として読めるところがありませんね。どうしようかな…。
では、「おのれに惑ひて」としてみましょう。そうすると、どうなるでしょうか。自分自身に惑う。思いのままにならない自分自身に戸惑う。それは恋ですよね。なんでこんな人を好きになっちゃったんだろう…って思っても、やっぱり好きであることをやめられない…。そんな経験ありませんか?「おのれに惑ひて」とすると恋心が読めました。けれども、上の句の「暗ければ(くらいので)」とはスムーズにつながりませんね。「山が鬱蒼としてたから、思いのままにならない恋心に戸惑って鳴いているほととぎす」ちょっと論理が飛躍しています。(これを埋めるためにいろんなことを想像するのも楽しそうですね。)
ここの解決策として、「おのれが」と、「おのれに」の二つの文脈を入れるために、この歌はあえて助詞を省略したのでは?という説を提示したいと思います。歌だけで読むと、山の暗さに迷ってしまうほととぎす、という内容です。でも、詞書に、「夏の恋といえば?というお題で詠みました」と書いてあるので、「この歌、恋の文脈でも読めるの!オレうまくない?」といっているようにも見えるのです。確かにうまい。実朝やるなあ。
でも、どうして「木の下闇」に鳴くほととぎすと、自分の思いにかなわぬ恋心が取り合わせられるんでしょう?私は短歌の人なので、どうやって歌をつくろうかいつも考えるのですが、この歌はちょっとわかりませんよね。だって、すくなくとも実景ではなさそうですもん。
さて、そんなことを考えるために、実朝の和歌を考えてみたいと思います。彼には歌の先生がいます。そう、言わずと知れた日本文学を代表する大歌人、藤原定家です。実朝と定家卿との関係は、例えば実朝のために和歌の教科書を作ったという話からもうかがい知れるでしょう。その名も『近代秀歌』という書物です。『近代秀歌』の説明は以下の『和歌文学大辞典』を引用しておきます。
近代秀歌 きんだいしうか〔鎌倉時代歌学書〕
藤原定家著。書名は「和歌秘々」「秘々抄」などとも言われ、一定の題号はなかったようである。初撰本は源実朝のために書かれ、承元三1209年に成立。(略)本書は詠歌の方法論としての本歌取りについて論じたもので、『詠歌大概』と並び定家の代表的論著である。本書では和歌史の頂点を『古今集』に置き、そこを仰ぎ見る復古(擬古)の試みとして本歌取りを位置づける。さらに『古今集』の風を細分し、従来の作品は貫之風(知的作風)の模倣であったとしつつ、自分はそれより古い六歌仙期の「余情妖艶」の体を庶幾すると述べる。また、本歌に余りに似てしまわないための規定や、同時代歌人の詞を取ることの禁止などについて記す。流布本系統はその後、源経信から藤原俊成までのいわゆる近代六歌仙の秀歌例二五首を挙げるのに対し、自筆本は八代集から抄出した八三首を掲げており、両者はこの点で最も異なっている。影印は武蔵野書院版(自筆本)・日本名跡叢刊・冷泉家時雨亭叢書37など。翻刻は『歌学大系3』・古典大系65『歌論集・能楽論集』・古典全集及び新編古典全集『歌論集』など。
【参考文献】『中世文学論研究』田中裕(塙書房 1969)*『中世和歌史の研究』福田秀一(角川書店 1972)*「『近代秀歌』諸本の系統に関する一考察」今井明(国文学研究 1986・6)*『歌論の研究』藤平春男(ぺりかん社 1988=『藤平春男著作集3』笠間書院 1998)*「近代秀歌と詠歌大概―「歌論書」とは何か―」浅田徹(『講座平安文学論究15』風間書房 2001)(浅田徹)(『和歌文学大辞典』)
少し、『近代秀歌』も読んでみましょうか。
詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて、寛平以往の歌にならはば、自ずからよろしきこともなどか侍らざらむ。古きをこひねがふにとりて、昔の歌の詞を改めずよみすゑたるを、即ち本歌とすと申すなり。
訳)歌の詞は古くからある歌のことばを尊重して、内容は今までにない新しいものを追求し、高度な完成度であろうとして、宇多天皇の時代以前の歌(『古今集』の初期の時代)にまなぼうとすれば、自然といい歌ができないこともありません。昔の歌のことばをそのまま新しい歌に取り入れることを「本歌とする」と申します。
(藤平春男ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 歌論集』小学館2001年を参照。訳は御手洗)
これによると、和歌の勉強に『古今集』を読んでいたようです。『古今集』といえば、夏の歌として集めた歌のほとんどがほととぎすであるという、ほととぎす好きな歌集でした。なんか似てる歌ないかなー。
さ月山こずゑをたかみ郭公なくねそらなるこひもするかな(『古今集』恋2・579番・紀貫之)
五月の緑生い茂る山、その峰に植わっている木の枝の背が高いのでほととぎすの声が響き渡る。それをきいた心はぼんやりと空に浮かんでうわのそら。恋だな。
五月山の風景、ほととぎすの声、そしてそのほととぎすの声によって理屈や理性から剥離する恋心。ベースとなる部分はそろってますね。
ほととぎすと恋心の関係は『古今集』のこの歌が宣言しています。
ほととぎすのはじめてなきけるをききてよめる 素性法師
ほととぎす初声きけばあぢきなく主定まらぬ恋せらるはた(夏・143番)
「あぢきなく」は、統制がとれない無秩序な様子をいいます。英語で言うとout of order、みたいな。今年最初のほととぎすの声を聞くと、自分ではどうにもならないようにして、むやみやたらにとでもいいましょうか、そんなふうに恋心が沸き起こってくる。そういうふうに古典の人たちは思っているのでした。
『金槐集』が『古今集』っぽいとは、吉本隆明も評伝『源実朝』(筑摩文庫で出てますね)で言っていることですが、たしかに、この歌もベースに『古今集』があることが分かりました。一般に実朝は万葉調うんぬんっていっていますが、そんなことも無いようです。万葉調うんぬんとは、正岡子規からですね。なんだかこの連載は正岡子規の解体ばかりしているようです(笑)。まあ、この近代的和歌観の解体はすでに行われているので、その次の話をせねばなりませんが。ちょっと寄り道をして認識を共有しておきましょう。
直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存じ候。強ち人丸・赤人の余唾を舐ぶるでもなく、固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。(正岡子規『歌詠みに与ふる書』)
近代的自我の現れた歌人として、実朝をヒーローにしたのですね。でもよーく読むと、実朝は伝統をふまえた和歌の作り方をしていることがわかります。そして根底には、子規が否定した『古今集』がある。なので、この実朝評価はとても意図的なものと言えます。「自己の本領屹然」とか与謝野鉄幹も言いそうですよね。あの時代の理想が見える気がします。
ここまで、実朝の歌と『古今集』の関連をみてきました。これについては現代の注釈書に指摘があります。では、同時代としてはどうでしょう。それでも子規が言うような独自の境地を行く孤高な歌人だったのでしょうか?
定家卿が先生と言いましたが、実は、さっき読んだ実朝の歌とよーく似た歌が『六百番歌合』に定家の歌としてあるんですよね。『六百番歌合』というと、この『金槐和歌集』ができたといわれる年よりも20年ほど前にあった歌合です。ちょうど実朝が生まれたころに企画されました。(そう、「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事」という発言がでたあの歌合です。)
廿四番 左勝 定家
山深みなげきこる男のおのれのみくるしくまどふ恋の道かな
右 家隆
人のかへるいへぢをおもふにもあはぬなげきぞやすむまもなき
左右共不難申
判云、左の恋の心はふかかるべし、右、かへるいへぢ、
あはぬなげきなど、いとも心え侍らぬにや、左勝と申すべくや
(『六百番歌合』恋十・24番・1187番 下線引用者)
定家卿の歌に下線を引いてみました。「おのれのみくるしく惑ふ恋の道かな」と、あるように、ここでも恋に惑う心が歌われます。「山深み」とは、山の深いところ、山の奥地なので。そこで重労働に嘆く木こりの男(きこるを)の斧(おの)と、「おのれ」を掛け合わせています。これはいわゆる序詞というものですね。「おのれ」と木こりの「斧(おの)」をダジャレのように掛け合わせるために、わざわざ斧の説明までなされます。でもこれは無駄な表現ではありません。序詞というのは、そこで描写されたイメージを、歌の本流(恋の道にまようという内容)に流し込むやり方です。惑う恋の道が山の深いところ、つまり「木の下闇」のような緑の闇であることが示されるのです。
さて、実朝の歌は、緑がうっそうと生い茂る中、ほととぎすが緑の闇に埋もれて泣いているように、うっそうとした闇の中で恋の心に迷っているという歌でした。緑の闇のイメージが恋に惑う心とつながるのは、定家の歌があったからだとは言えないでしょうか。『古今集』がベースを固め、歌の論理を定家が整える。そこを、「おのれ惑ひて」と独自のことば遣いをしながら実朝が飛翔する。すくなくとも、実朝は和歌史なくしては語れない歌人であるといえるでしょう。
ここまでたらたらと実朝の一首の和歌をめぐってお話してきました。実朝の和歌ではもっと話すべき有名な歌があるのですが・・・今回はここら辺にしておきましょう。(百人一首の歌も言いたいことはあります・・・。ちなみに百人一首の歌は茂吉の詠み方ととても似ているのですが、これはまた別の機会にするとしましょう。原稿依頼待ってます笑)
和歌を詠むとはどうしても作品の再生産となります。この点についてはこの連載のどこかで書くと思いますが、そこで用いられるのが和歌のことばです。このことばは、知の蓄積といえるでしょう。私も冷泉家では、題の中で用いるべきことばを必ず習います。そのことばによって一首が作られるのですが、やはり分からないことばは使えません。作れたとしても、やはりそのことばだけのための歌となって、おもしろくない。
その点、実朝はこれまで用いられてきた表現を組み合わせ、一首の歌として完成させる、まとめあげる力がめちゃくちゃあります。それにはことばを使いこなす力と、概念を歌のかたちにする力がないとできません。子規をして、歌の独自性を評価せしめたのはそこにあると言えます。ことばを編み上げ、またあらたな生き物のように一首を「本領屹然」と立ち上がらせる力はそこにあるのではないか、と、ここまでのプロセスをちょっとだけ飛躍させて結論づけてみます。なんだか実朝の歌を読んでいると、歌をつくるとはなにか考えさせられますね。皆さんもぜひ考えてみてください。
【主要参考文献】
小島吉雄校注『日本古典文学大系 山家集・金槐和歌集』岩波書店1961年
樋口芳麻呂校注『新潮古典集成 金槐和歌集』新潮社1981年
今関敏子『実朝の歌 金槐和歌集訳注』青簡舎2013年
吉本隆明『日本詩人選12 源実朝』筑摩書房1971年
正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波書店 1955年
竹岡正夫『古今和歌集全評釈』右文書院1976年
久保田淳ほか校注『新日本古典文学大系 六百番歌合』岩波書店1998年
小沢正夫ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 古今和歌集』小学館1994年
藤平春男ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 歌論集』小学館2001年
※ 和歌の引用は日本文学web図書館の『新編国歌大観』をもとに、読みやすいよう表記を改めました。日本文学web図書館は、『新編国歌大観』、『新編私家集大成』などの、とりあえず文学史にのるほぼすべての和歌とそのことばを検索できるデーターベースです。また、『和歌文学大事典』や、『歌ことば歌枕大辞典』も参照でき、和歌文学研究には不可欠となっています。早稲田大学図書館ではこれを導入しており、本稿もこれが無ければ書けませんでした。恵まれた研究環境に感謝しつつ、ここに謝して記しておきます。