葉ねめがね(1)
ほろ酔い天使
池上規公子
葉ね文庫、という本屋を開店してから2年が経ちました。
詩歌の本をメインに扱っていて、俳句・短歌・川柳・詩、お客さんの大半はなにかを作っている人です。
ジャンルを超えてお客さん同士が創作について、読んだ本について、熱心に話をするような「場」になってきているのを、不思議な気持ちで見ています。
私が本質的に無口なほうですから、これは想定外でした。
俳句では、若手の方たちがよく来てくださいます。
ある夜、若手俳人おふたりがほろ酔いで来られた時のことです。
私が「硬い椅子ですがよろしければ。」と椅子をすすめますと
「硬い椅子をすすめられ・・・これで一句詠んで。」と突然遊びが始まりました。
これには感動をおぼえました。いつもそばに俳句があって、磨き合っているのだなと。
俳句できゃっきゃとはしゃぐふたりは、まさに俳句で遊ぶ天使たち、私はそれを目撃した村人、といった感じでした。
(余談ですが、大喜利の方もふたり居合わすと、こういう遊びが始まる傾向があります。)
そんな若手俳人たちは、句集だけではなく、歌集や詩集、漫画など、いろんな本を選ばれます。
うちの店に来られる方たちが特別そうなのかもしれませんが、柔軟な読み手であると感じます。
おもしろく共通していることは、よく分からない現代詩などを読んだ時に、分からないことに対するストレスが少なく、分からないことを楽しんでいるように見えます。
ですので、今回はふだん気軽にはおすすめしていない本をあえて、2冊取り上げてみたいと思います。
俳人が読むとどんな風に感じるのだろう、っていう興味もあります。
カニエ・ナハ詩集『馬引く男』(私家版)
息を呑むほどしばらく
非常に厳しい光に
鮮やかに焼かれて
本当に、
迎えられて
馬は
起きようとするたびに、
頭を打って
ほとんど死んで
死ぬことによって
否定する
否定することで告白する、
紛れもない歴史の途方もない巨大な消失点があって
それを通じて、初めて、見て、結果として、知る
あるひとつの単純な事実
(「馬」より引用)
こわい。
一冊読むとそうとうな悪夢が形成されます。
悪夢だと思ったら現実だと囁かれている。
短く区切られた言葉は、静かに始まり、次第に早まり、くっきりと見えてきた景色は、見たくなかったもの。
すっかり迷い込んでしまい、息切れしながら、緊張しながら読むのでした。
言葉が持つ意味だけではなく、リズムや繰り返しによって怖さは増すのかもしれません。
そんなことってありますか、って、確かめるためにまた読んでしまいます。
そう、気軽におすすめできない理由は、こわいからです。
この本は現在葉ね文庫でも販売中です。
宮崎夏次系『夕方までに帰るよ』(講談社)
ひきこもってしまった姉、
カルト教団らしき怪しげなクラブ活動に熱を上げる父母、
そんな家族と真正面から向き合えない「僕」……。
壊れかけた一家を通して描かれる、
誰かと繋がっていたいのに誰とも「本当」には繋がれないすべての人に贈る、
99%の絶望と1%の希望の物語。
(あらすじを引用)
宮崎夏次系はすべて読んでいます。
どの作品も好きなのですが、良さを説明しようとすると、作品の世界を壊してしまいそうです。
痛点を的確に突かれますが、余韻が残り、美しいと感じています。
あらすじの、“誰かと繋がっていたいのに誰とも「本当」には繋がれないすべての人に贈る”という部分が好きではありませんが、あらすじでは分からない圧倒的なものを、目配せくらいの軽さで共有できたらなあと思います。
この本は葉ね文庫では販売していませんが、時々、古本の棚に現れます。
私が買って置いていますので、見つけたらこれは買いです。