関西現代俳句協会

■2016年12月 青年部連載エッセイ

てにを、はっ。(最終回)
ほぐれぬめん

橋本小たか

 

 星野立子が流行っているとか。

 明治以降の最も注目すべき女流俳人は誰か? と
酒席のたわむれに聞かれて、
星野立子に違いないとかねてより答えてきただけに、ちょっとうれしいニュース。

 というのも、
長引く不況と繰り返す震災に明日への希望を持ちがたいこのご時世に、
わざわざ持ち重りのする作品が多くの人に歓迎されるとは思えず、
作り手も読み手も知らず知らず求めるようになるのが
俳句の「一服の清涼剤」としての機能。
 だとすれば、きっと立子に立ち還ることになるのではないか。

 立子句においては、後半の陰りを含んだ味を好む向きもあろうが、
現代的ニーズでいえば、やはり「天真爛漫」への志向となるだろう。

 山崎正和さんが『不機嫌の時代』で精密に描いたように、
日露戦争勝利後、西欧に勝利した歓びの反面、
目標を失い心のゆきどころを失った知識人たちは、一体に不機嫌になった。

 立子句はそうした男たちの停滞時代に咲いた、彩り鮮やかな花だった。
 そして現代、もはや男女ともに心のゆきどころを失い、
長らくつづく停滞時代に立子が改めて見直されるのは
当然のなりゆきと言えなくもない。

 こうした停滞時代にもうひとり、他人の作品を褒めるのに、
「愉快」「素敵」といった明るい言葉を選んで励ましているのが、坪内稔典。
 「船団の会」ホームページ中の「日刊 ねんてんの今日の一句」は
「船団」の会員に限らず様々な作家の「一句」を紹介し、
 四行ばかりのコメントを付す連載だが、
 恐らく意識して「愉快」「素敵」といった言葉をたびたび使っている。

 「愉快」は正岡子規や夏目漱石の随筆などにしばしば使われた語で、
ものごとの判断基準とさえなっているような重要な語。
 稔典さんの「愉快」は恐らくこの子規や漱石の使い方を今に受け継いでい、
これまで多くの俳人を引っぱってきた「写生」に代わり、
「愉快」の復興によってこれからの俳人を牽引しているように見える。

 作るにせよ、読むにせよ、多くの共感を得られそうな「愉快」によって、
「船団」は、というより、
稔典さんの指針は時を経るにつれ俳句の主流になっていくに違いない。
(あと、稔典さんとは関係ない余談だが、知的抒情とでも呼びたい流れが、
主流とはいえないまでも、確かな小川として流れつづけるだろう)

 …と知人たちに伝えると、大いに否定されるのが常のところ。
 さて、どうなるか。

 誤解無きようお伝えしておくと、
私自身は「船団」の会員でもないし、
共感はするものの自作に活かすということもなく、いわば傍観者の立場。

  

 

 傍観者といえば、私自身が注目しているのは蕪村作品の、世界との距離感。
 目の前の事柄に喰い込んで禅のごとくに一体化するというより、
どこか一歩引いて作品化する風が蕪村にはある。
なにもかも自分の手に届くものは一つとしてない、そんな距離感。

 蕪村が終生愛してやまなかった王維の詩もまた、常に対象とのあいだに距離感がある。
人の声は遠くから聞こえてその姿は見えず、せせらぎと自分とのあいだには草むらが茂り、せせらぎの水にふれることができない。

景の把握というよりも、遠さそのものの把握というにふさわしい。

 そもそもこの宮廷の高官は人目を避けるようにして別荘を構え山水に遊んだひとだから、たえず距離感の意識があったことは言うまでもない。
その詩、あるいは詩から伝わる人となりに同じ匂いを蕪村は感じたのではなかろうか。

 こうした距離感を話題にするのには個人的な訳がある。
 同じ感覚をもつ人は案外多いのではないかと思うけれど、
昔から、透明な膜みたいなものが間に挟まったようにどこか世界が遠く感じられ、
人の声はどこか遠く小さく、できごとの現実感が薄い。
 季語を通して強制的にでも季節を感じられるようになれば
少しは世界が近づくのではないかと希望を託したのが俳句をはじめた理由の一つだった。
その辺の感覚はあいかわらずだけれども。

 近代以降の俳論にすこし目を通してみれば、
さまざまに言い方は違えども、「対象と一体となれ」といった話が並び、
気が重かった。
 評論を読んだつもりが、なんだこの宗教的な託宣はと違和感を感じたことも
しばしば。
 俳句評論のアンソロジー『俳句 百年の問い』に対して、小説家の倉橋由美子が「自分と同じく日本語を職業にした人たちの文章とは思えない」といった内容で難じたのは、恐らく、第一に、俳句がまるで精神論ばかりで語られる茫洋のせいで、第二に、俳人の文章が下手だったせいで、そう嘆いたに違いない。

 思うに、人は「対象と一体になれるタイプ」と「傍観してしまうタイプ」に 分かれる。前衛・伝統、歴史的仮名づかい・現代仮名づかいなどといった
区分けよりも、それ以前のものの認識の仕方に関わっていて、
恐らく作句において二人は真に交わりにくい。

 ただ一家をなした俳人の多くは「対象と一体になれるタイプ」なので、
俳論や入門書にはそのように書かれることも多く、
そう言われたからといっておいそれとは実現できない「傍観してしまうタイプ」で 思い悩んだ人も多いのではなかろうか。
 罪深い指針と言わなくてはならない。
 もっとも、詩形じたいが激烈な感得みたいなものを求めているところもある。

 「傍観してしまうタイプ」は、作品の読み方も恐らく下手。
小説を読むとき、ふつう読者は作者=主人公と思わないが、俳句はそのへんの境が微妙、
ただ様々な句会で様々な人の選評を聞くかぎり、
作者=主人公として読んでいる向きが多いように感じられる。

 私じしんは、作者と主人公は切り離されたものと思っていて、
さらにいえば読者として、自分が主人公と一体となって
一緒に何かを感じるというより、
その主人公を後ろから見ているという風に、つい読んでしまう。
 後ろ頭を見ているなんて、あまり上手な読み方じゃないと思うが致し方ない。

 あなたはどっち派ですか?

  

 

 最後に、ものすごくどうでもいい話が、ちょっとある。

◎吟行句会の選評時に、「この句は今日の吟行句としていい」という評語を聞くが、
あれはかなりよく分らない褒め方で、その吟行に行ってない人に伝わる
普遍的な作品こそがいい作品に決っているだろうと密かに思うが如何。
褒めたことにならない。

◎句会の選句時に、「いい句なんだけど、うまく選評できそうにないな」と思って、
取るのをためらうことがないではない。
本末転倒の邪念としかいいようがないが、実際ちょっとためらう。
「いいと思った理由が言えないようでは、作者に失礼」と怒られることもあるけれど、
あれは「何となくいいと思ったから」と言い切ればいいんですね。
最近、やっとそう思えるようになった。

◎句会の選評時に、名乗った作者が制作経緯を滔々と語ることがある。
作者が多くを語るものではないとして作者の弁を禁じる結社もあれば、
特にそこは気にしないというとこもある。
どっちでもいいようなものだが、
「どこどこに行って、こんなのを見て、こんな風につくって」という類いの話なら、
たとえば90秒までと時間制限を設けたらどうだろう。

◎清記用紙に、読めない文字で清記するひとがいる。
異常に乱筆、異常に達筆。どちらも同罪で、読む人のことを考えていない。
読む人のことを考えない作家というのは作家ではないので、
どこか作家としての資質が欠けているように思える。
杉浦圭祐さんの字はとてもきれいで読みやすく、いつも感心する。

◎上五が六文字以上になってもかまわないが、中七・下五は字数を守れ、と言われる。
 リズムが崩れるというのがその主な理由だが、
本当に、肉体感覚で、リズムが崩れると思っている人はどれだけいるのだろうか。
何かとにかく気持ち悪いといった生理的な拒絶までには、私は正直ならない。
たとえば、生理的に吐きそうになるくらいの中八駄目派がどのくらいの割合いるのか、
ちょっと知りたい。
もし10%くらいしかいなければ、「中七・下五」厳守は、疑ってもいい風習だ。

◎季語は「効く」ことになっている。
とりわけ他人の作品を評する際に便利なことばだが、
割と無条件に使っているようにも思える。なぜ効かないといけないのだろう。

◎「こういう句には類句が山とある」と評したとき、
評者が実際にその例句を挙げることは少ない。

◎自然ゆたかな風土に抱かれて、その自然を目に見えるように写生する。
そうした句を句集といったまとまったボリュームで読むときに、
おうおうにして自慢話のようにしか読めないのはなぜだろうか?
大自然の移ろいを作者とともに感じるよりも先に、
正しい営みをしているでしょうという生活自慢になりがちで、
興が冷めることがしばしば。
自然と人間の営みを扱って、南うみをさんの句は、不思議とそうはならない。

◎俳句を、高尚な趣味と思っている人がいる。 本気でやっているわけではないが、俳句を趣味と言えるだけで体面上いい、という。
また、高尚な人生に恥じない、ひとつのアイテムとして俳句がある、という人もいる。
なにしろ高尚な人生を送っているから、もの腰やわらか、
気さくに何でも作品批評をしてほしいというが、
けなされると本気で怒るので、そういう人には気をつけたほうがいい。
誰にも読めない字で清記する人とおなじく、自分の満足ばかりで他人がない。
そのくらい我がままなほうが芸術家に向いているという話もあるけれど。

◎句集の編集において、制作年代順に並べることが多い。
驚くのは、この作品は何年のものと遂次分った上で書かれていること。
整理下手が祟って、俳句歴七年といった短い句歴にも関わらず
もはやどれが何年の作か分らない。
みんな、どうやって整理しているのだろう?
しかし、正直に言えば、年代順に整理する必要がどこにあるのかいまだによく分らない。

◎句集をいただいたときにどうお返事するか問題は、ときに飲み会で話題に上がる。
誰に対しても、いっさい、何の返事もしない、という強心臓の人もいるが なかなかそんなことはできない。
 とりあえず、届きましたという報告とお礼を兼ねて、葉書を出し、 追って感想などを送るという人もいる。これがいちばん順当に思える。 自分が句集を出すとしてもそれがいちばんうれしく安心のような気がする。
 ただ、「お金のかからない趣味と思ってはじめたのに、句集を出すとなったらまた別で」
といった思わぬ出費話は、もう特に繰り返さなくてもいいように思う。 でも、自分もやってしまいそうな気もする。

 傍観者を決め込んでいるわけではないが、いろいろ不思議なことは今もある。

◆「てにを、はっ。(最終回) ほぐれぬめん」:
橋本小たか(はしもと・こたか)◆

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