てにを、はっ。(3)
ボルヘスからモスへ。
橋本小たか
「BABYMETAL」のライブDVDによって、我々は二度、死にそうになる。
一度目は、ことにクライマックスへと向かう「ギミチョコ!!」あたりの、
悩殺されるしかないチャーミングさによって。
二度目は、ライブが終りDVDの回転が止まったときの、空虚さによって。
「LIVE IN LONDON-BABYMETAL WORLD TOUR 2014」。
このDVDをお借りしたのは彌榮浩樹さんで、
何度もこのDVDを見返したはずなのに、今日も元気に生きている。
ずいぶんタフな先輩だと尊敬の念を新たにした。
さすが「強現実」を唱導する男というべきか。
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きっと誰にでも心あたりのある失敗に違いない。
先日、『ボルヘス、文学を語る』(岩波書店)を買って、第2章あたりで気がついた。
一度、読んだことがあるかもしれない。
あわてて本棚を見返してみると、果たして同じ本がある。
岩波文庫の『詩という仕事について』。
先日買ったのはハードカバーで、以前のものは文庫本。タイトルだってまるで違う。
違う本だと勘違いして買ったとしても無理もない…かもしれない。
同じ本ということなら、『サイボーグ009』の何巻だかは、なぜか三冊も買った。
おもしろかったのは、
ご丁寧にも、ここが大事と文章の横に引いた線の箇所まで同じだったことだ。
この体験はなかなか含蓄の深いものではなかろうか?
どんどんと生まれ変っていく皮膚細胞ほどには、本人はお変りがないということだ。
あるいは、こうも言える。
人生は川のように絶え間なく変化する。
しかし脳みそは水道水のようにいつも同じ味である。
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ハードカバーのほうのタイトルで言えば『ボルヘス、文学を語る』、
これは俳句作者の我々をも心地よくくすぐる本だ。
(言い忘れていたが、副題は「詩的なるものをめぐって」)
とりわけ第1章は、丁寧に読んだ方がいい。
われわれが思うボルヘスは文学から文学をつくるモダニストであって、
文学者というよりもむしろ批評家のイメージが強い知の巨人だが、
実のところ自分の趣味だけを信じる根っからの享楽主義者だ。
つまりは、理知的な実作者にして批評家、そう見えて、蛇だということだ。
日本人の小説家でいえば、そう、たとえば倉橋由美子に似ている。
ラテンアメリカの蛇のような小説家は、
書物は「崇拝すべき不壊(ふえ)の対象ではなくて、むしろ美の契機である」という。
あるいは「まさにわれわれが安心し切っているとき、落日が訪れる」という
ブラウニングの詩を引いて、詩となるための美が、
今曲がろうとする街角に、「常にわれわれの周りに」存在するという。
これは何を意味するだろうか?
この本がハーバード大学の詩学講義の記録だという性格からすると、
第一に聴衆である学生たちへの励ましである。
「新しい表現をつくることは、まだできる」という励ましだ。
時間は古典群に新たな「美の契機」を与えつづけ、
空間はあらゆる場所で常に新たな詩人たちの目を待っている。
万巻の書とつきあってきた詩人が語る新しい表現の可能性は、
学生たちにとって希望となるだろう。
もちろん僕らにとっても。
しかし、後半になってボルヘスは、こうも警告する。
「隠喩は信じられる必要はない。本当に大事なのは、
隠喩が書き手の感情に対応しているとわれわれが思うことなのです」
ここで、はたと立ち止まる。どきりとして背筋が寒くならないだろうか。
森羅万象というほどに詩の題材は無限にひろがるが、
それを切り取る自分に嘘をついてはいけないという警告だ。
嘘とは言わないまでも、
魂の欠けたことばの取合せあそび、空白をごまかす思わせぶり、
誰かをなぞって事足れりとするお稽古ごとの延長、
師匠の趣味に合わせたへつらい、その他もろもろ、
「書き手の感情に対応」しない作品を仕上げることが、
我々には、ままあるのではなかろうか?
こうしたボルヘスの心やさしい詩論に励まされたり、冷汗をかきながら、
我々はきっと虚子の『五百句』を思い出すことになるだろう。
あの句集は、森羅万象を相手にしながら、
「書き手の感情」にしか対応していない。
試しにめくってみたらいいが、
読者は、ほとんど例外と言える一つ二つを除いて(一つは、例の大根の葉のやつだ)、
不思議なことに、どこにもこれぞ客観写生なぞという作品が
見当たらない事実に、あっけにとられるのだ。
たとえば『五百句』の最後のほうに登場する「くはれもす八雲旧居の秋の蚊に」は
(余談だが、『五百句』は後ろから読んだほうがいい。クリエイティブな刺激が倍増することだろう)、
このナンセンスな無意味感、脱力感がおもしろいのと同時に、
実は、虚子という「書き手の感情」が信じられるからおもしろいのだ。
蛇笏の例の「芋の露連山影を正しうす」は、
名作ということになっていて、誠に威厳正しい。
けれど、見て見ぬふりができるやさしい読者以外にとって、
「タダシウス」という音には滑稽がつきまとう。
笑えるということだ。
きりっとしまった背広を身にまとった紳士のズボンの裾がめくれあがっている具合で、
すね毛が露わになっている。そんな感じを思わせる。
ちょっとだけ正しくないのだ。
虚子の句の場合、「〇〇うす」がさらに、「〇〇もす」という変な音になっていて、
もう特に「八雲旧居」に興味がないことを表明している。
そこが信じられるのだ。
我々は、ボルヘスの詩論と「くはれもす」の関係について、
もうちょっと考えてみてもいいのかもしれない。
◆「てにを、はっ。(3) ボルヘスからモスへ。」:
橋本小たか(はしもと・こたか)◆