てにを、はっ。(1)
詩論というもの
橋本小たか
とある先生いわく、
「努めて簡潔さを求めると、曖昧になる。洗練を狙うと、力強さと気迫が失われる。荘重さを表に掲げると、誇張におちいる。」
思い当たる節はないだろうか。
句の個性を強めようと励んだ挙句、陥りがちなあれこれ。
先生の名はホラティウス。紀元前一世紀のローマ詩人であって、たとえ岩波文庫にアリストテレスの『詩学』と一緒に収められていたとしても、よほどの暇人でなければその『詩論』を繙くことはないだろう。 それでも、ときに鋭い箴言が見つかったりもして、どきりとさせられることがある。こんなくだりはどうだろう。
「わたしは、ありふれたものから詩をつくりたい―それを見て誰もが、同じことが自分にもできると楽観し、実際に試してみて大汗を流し、無駄な努力を費やす羽目となる、そのような詩を狙いたい。語の組み立てと結びつきの力はそれほど大きく、万人の共有物から取り出してきたものにはそれほど大きな栄誉があたえられる。」
一見、誰もが知っている言葉だけが並んでいるように見えて、「語の組み立てと結びつき」によって不思議と感覚が新しい。 そんな句を狙いたいとわれわれもまた思ったことがないだろうか。
どうやらこれは詩その他を作る者にとって普遍的な思いらしく、この信条は洋の東西、時代の今昔を越えて繰り返し語られる話題のようだ。
例えば中世の日本歌人を見てみよう。
『新古今和歌集』の代表的な選者のひとり藤原定家の『歌論集』(『歌論集 能楽論集』岩波書店)をぱらぱらっとめくってみると、
「耳に立つ珍しい言葉は、五六文字の長いものと言わず、二三文字のものでもたびたび使っていると、あきれられる。あの人は元々そういう変った言葉を好む人で、などと噂になってはいけない」(拙訳)
とは言え、実のところ単語に罪はない、と定家はいう。
「すべて詞に、あしきもなくよろしきも有るべからず。ただつづけがらにて、哥詞の勝劣侍るべし」
中世日本の『百人一首』の選者が、単語に良し悪しは無く、ただ「つづけがら」があるだけだと書くとき、われわれはきっと古代ローマ詩人が語った「語の組み立てと結びつきの力」を思い出すことになるだろう。そして、それを縮めて箴言風にいえば、あの有名なくだりになるだろう。
「ことばはふるきをしたひ、心はあたらしきを求め、およばぬたかきすがたをねがひ」
あるいは二十世紀のイギリスを代表する詩人兼批評家T.S.エリオットに言わせれば、こうだ。(『文芸批評論』岩波文庫)
「詩に風変わりなものをあらわすというまちがった考えによって新しい人間的情緒を表現しようとするが、このようにまちがったところで新しい変わったものをもとめるからひねくれたものを見つけるのだ。詩人の仕事は(略)ふつうの情緒を用い、これを詩につくる時には実際の情緒の中にはまったくない感情を表現することである。」
こんな話をしたのも、遅まきながら平井照敏編の『現代の俳句』(講談社学術文庫)を読んだせいだった。
あとがきで平井は『現代俳句ニューウェイブ』掲載の夏石番矢の作品群(例えば「玉ナス涙ノナカノ完全静止ノ精子」)を「新鮮な詩が見当たらず、やたらにハンマーの打撃だけが見えてしまう」句であって、「ダダ行動のくり返し」と判定した。一方で、長谷川櫂のとりわけ「春の水とは濡れてゐるみづのこと」を「伝統につながりながら、新しい感覚をにおわせて、十七音を一変させてゆく」句であると褒めて、「確実に伝統を一歩すすめるものとなるだろう」と予言した。
詩人兼俳人のこうした批評は古今東西に通じる詩の読み方、あるいは詩への期待のしかたとして、まったく正統なものだろう(ダダイズムや超現実主義に対しての距離の置き方においても)。
どうやら詩というものはいつの時代でも、誰もが知っているふつうの言葉の「組み立てと結びつき」(あるいは「つづけがら」)によって、「実際の情緒の中にはまったくない感情」や新しい感覚を表現する言語芸術のようなのだ。
・・・ただ、以上の話にひとつだけ問題があるのですね。
僕らが作っているのは俳句であって、詩ではない。詩の話は何の関係もないかもしれないということである。
◆「てにを、はっ。(1) 詩論というもの」:
橋本小たか(はしもと・こたか)◆