関西現代俳句協会

■2015年12月 青年部連載エッセイ

虚子と能(最終回)

中本真人


能の何十番かには子役という役どころがあり、鎌倉の演能でそれを必要とすることがあり、父の発意から小学生の私がそれに抜擢されたのである。やってみるか、と、父から事情を説明されたとき、なんとなくその申し出を承知したのであった。(池内友次郎『父・高濱虚子』永田書房、平成元年)

 虚子の次男である池内友次郎は、小学生のころに子役として鎌倉能楽堂の舞台に上がっている。友次郎の能を指導したのは、宝生流シテ方の松本長であった。父から誘われるままに能を始めた友次郎であったが、何回か舞台を務めるうちに、やがて能に対する興味を深め始めていったという。結局、中学入学を控えて能修業は終えることになったが、一流の能役者のもとで稽古を重ねた経験は、友次郎が作曲家として成功する基礎の1つになったことは指摘されてよいだろう。

 それにしても、なぜ虚子は友次郎に能を勧めたのだろうか。ほかの兄弟と比較しなければ正確なことはいえないものの、1つには友次郎が虚子の次男であると同時に、池内家の当主であったということにも理由が考えられるのではないだろうか。虚子は、もともと池内家の出で、祖母の生家の高浜家に養子に入っている。一方の池内家の方は、虚子の長兄政忠に嫡子がいなかったために、今度は友次郎が養嗣子として伯父の籍に入れられたのである。

 虚子は、友次郎が池内姓となっても、ほかの兄弟と同様に手許で育てたが、それでも本家の当主を預かっているという意識が常にあったはずである。後年、虚子が相当な無理をして友次郎の洋行を許したことについて、本井英は「友次郎に対する破格の扱いは、こうした「家」意識の中で理に叶ったものとなったのではないか」(本井英『虚子「渡仏日記」紀行』角川書店、平成12年)と指摘している。幕末の池内家は、文武両道に通じた武家であり、能に携わる芸能の家でもあった。池内家の当主は能に通じていなければならない、という明確な意識が虚子にあったかどうかは判らないものの、虚子はただ自分の趣味に子供を付き合わせたのではなく、池内本家に対する責任として、当主である友次郎にも能を身につけさせようとしたのではないかと考えられるのである。

 予定していた紙数が尽きようとしている。
 虚子と能との関わりを考えるつもりが、父池内信夫、兄信嘉、さらには次男友次郎を追う結果になってしまった。能楽が池内家、引いては高浜家の「家」の業であったことがみえてきたのではないだろうか。能に限らず、日本の伝統芸能の多くは「家」によって継承されてきたといえる。芸能の家にとって、家を守ることは芸を守ることであり、芸を守ることは家を守ることでもあった。その伝統の中にあって、虚子は、池内家・高浜家の一人として、能楽を守り伝える責任を感じていたのではないだろうか。虚子の能に対する強いこだわりは、その「家」意識の中で形成されたものだったのではないかと考えられるのである。

◆「虚子と能(最終回)」: 中本 真人(なかもと・まさと)◆


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