関西現代俳句協会

■2015年8月 青年部連載エッセイ

虚子と能(4)

中本真人


  

父は若い時分は武を励んで、九州や四国を武者修業して廻つた記録が残つて居るのであるが、其後藩政改革があつて剣術の師範家が廃されて剣術監といふものが二人置かれた時分に其一人となつたのであつた。それからまた、祐筆といふものになつて藩の記録を掌つて居た。「政忠私記」といふ書物がある。政忠といふのは後に信夫と改める迄の父の名であつた。(「父の五十年忌」全集第九巻)

 明治4年(1871)7月14日、明治新政府は廃藩置県の詔を発して、全国の藩を廃して県を設置した。虚子の父である池内庄四郎政忠(以下、信夫)は、若いころより文武両道の達人として知られており、藩の剣術監および祐筆を務めている。藩主から信頼され、しかも武術に通じた信夫は、多くの若い藩士たちから尊敬される存在であったようである。しかしその地位も、久松家という主君あってのものだったから、廃藩置県と同時に一切を免じられることになってしまった。藩士としての地位を失った信夫が一家を率いて帰農したのは、すでに述べた通りである。虚子は、父が武士として活躍する姿を知ることなく、明治7年(1874)に六男として誕生したのであった。
 池内信夫と藩主とを結びつけていたものに、能楽があった。江戸時代までの能は、将軍や大名によって保護されており、その中でも特に松山は能の盛んな土地として知られていた。城内に能舞台が設けられ、藩主や藩士だけでなく町民も能の公演を楽しんだという。しかし、その能についても、廃藩置県によって、これまで藩から受けてきた保護を失うことになってしまった。
 こうした中で、松山では三之丸に伝えられてきた藩の能装束が売り払われることが決められる。もしこれらの能装束が商人の手に渡れば、すぐに切り売りされて元の形を失ってしまうであろう。貴重な能装束を守るために立ち上がったのが、信夫を中心とする人々であった。信夫らは、能装束の購入資金の捻出に奔走するとともに、旧主の久松家に嘆願して、ついに能装束を守ることに成功する。久松家の能装束は、松山の東雲神社に奉納されることとなり、それに基づいて神社では春秋の能興行が催されることになったのである。

  

尚其他に父は謡曲を嗜んで居つて、松山の能楽界を維持して、年々の能を催し今日に至らしめたのは始めは父等二三の人の力によつたものであるといつていいのである。(中略)後年仲兄の池内信嘉が東都に出て、中央の能楽界の世話をしたのも此の父の志をついだものといつてもいいのである。(前掲「父の五十年忌」)

 明治維新で大きな打撃を受けた松山藩の能の復興に尽力した一人として、池内信夫の存在を指摘することができるだろう。虚子の知る父親は、文武両道に通じた武士ではなく、むしろ松山の能楽の復興に尽力する姿であったのではないだろうか。信夫は明治24年(1891)に死去するが、信夫の三男で虚子の兄の池内信嘉が、父の意志を受け継いで能の興隆に取り組むことになる。
 次回は、兄の信嘉の活動についてみていきたい。

◆「虚子と能(4)」: 中本 真人(なかもと・まさと)◆


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