関西現代俳句協会

■2015年6月 青年部連載エッセイ

虚子と能(3)

中本真人


私は幼時、母から清少納言の簾をかゝげた話や、西行法師の鴫立つ沢の話などを聞いたのがもとになつて、つひに文芸に遊ぶことになつてきた、といふことを以前申しましたが、また父からもこの能楽の趣味を受けまして、幼い頭に沁み込むやうに植ゑつけられたものでありました。少し心にゆとりができてきますと、いつでも子供の時分に見聞してをつた、謡とか鼓とか舞とかいふものの興味が湧き上がつてまゐり、幼い時と年とつた時との境がなくなつてしまふのでありました。(前掲「虚子自伝」)

 虚子と能とを最初に結びつけたのは、父の池内庄四郎政忠であった。庄四郎の人物像については、次回詳細に取り上げる予定なので、ここでは虚子の幼少期の庄四郎の生活について簡単に触れるにとどめておく。 明治7年(1874)、虚子は父庄四郎と母柳の間に生まれた。長く伊予松山藩主に仕えた庄四郎は、明治4年(1871)の廃藩置県で侍の身分を失ったことにより、風早郡柳原村西ノ下に一家をあげて帰農した。虚子の上には3人の兄がいたが、いずれも年が離れていた。特に長兄の政忠とは20歳も離れており、兄弟で親子ほどの年の差があったことになる。虚子が生まれたとき、父の庄四郎はすでに48歳であったから、虚子にとって、父は祖父のような存在であったのではないだろうか。

父は偉い人だと思つてゐました。長兄は父が剣術監として、藩中の若い人々を率ゐてゐた時の容子を親しく見て知つてゐるので、よく私に話しました。私の知つてからの父は百姓をしたり、写本をしたり、時には謡をうたつたり、時には歌を詠んだりしてゐまして、自分では昔のことは一言も話しませんでしたが、偉い人のやうに私の目には映りました。(前掲「虚子自伝」)

 虚子の3人の兄が誰も農業に就かなかったため、やがて一家は松山に戻ってくることになる。それまでの間、庄四郎は農業に打ち込んだが、その傍らにいつもあったのが、能であった。兄たちと年の離れていた虚子は、兄弟で遊ぶような機会が少なかったことが想像される。そのような幼少期にあって、父の謡は子守歌代わりだったのかもしれない。たとえ詞章の意味は解らなくても、繰り返し耳に入ってくる父の謡は、次第に虚子の血肉となっていったと考えられる。

父さんの謡は随分古いもので十二の歳にお前の祖父さんから烏帽子折を一番教わったことがある。尤もそう几帳面に教わったわけではなく、唯よい加減に習ったばかりである。(「父さんの謡」前掲『立子へ抄』)

 虚子が父から謡の手ほどきを受けたのは、12歳だという。この年齢はそれほど早い方ではない。しかも、庄四郎は虚子に多くの曲を教えなかったようである。庄四郎は、いわゆる趣味人ではなかった。それでも後年、虚子が能に親しむようになったのは、幼少期の父の謡が、彼の心の基礎になっていたからではないだろうか。
 次回は、庄四郎がどのように能に関わっていたのかを考えてみたい。

◆「虚子と能(3)」: 中本 真人(なかもと・まさと)◆


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