関西現代俳句協会

■2014年2月 青年部連載エッセイ

関西俳句の今昔 6(最終回)
鈴木六林男

青木亮人


 敗戦直後の混乱と昂揚を経て、時代の風潮と踵を接するように社会性俳句、前衛俳句運動が盛り上がりを見せた後、動乱の昭和40年代が訪れる。

 各地で全共闘運動が勃発し、芸術の諸ジャンルでも従来の価値観を打破しようとする作品や運動が発表された時期であった。中上健次がジャズ喫茶でアルバート・アイラーに熱狂し、中平卓馬や東松照明らが新宿の騒乱を写真に撮り、白土三平が漫画雑誌「ガロ」でカムイ伝を連載していた――そういう時代である。

 しかし、俳句ではこれらの熱気を反映した作品はさほど多くなかったように感じられる。俳句業界は年齢層が高かったため、戦後生まれの20代の若者が活躍する余地がなかったことに加え、あまりに地味なジャンルだったこともあるかもしれない。

 例えば、1969年にジャズ喫茶の片隅で演劇の脚本を書いたり、現代詩を書いて「狂区」あたりに投稿するのであればサマになるが、ジョン・コルトレーンのフリージャズを聴きながら俳句を詠むというのは、どうも似合わない。

 無論、全共闘運動の雰囲気を反映した俳句もそれなりに発表されたが、昭和40年代(特に昭和45年前後)に課題とされたのは時代の騒乱と手を結ぶことでなく、昭和30年代に興隆した前衛俳句運動をいかに継続させ、深化させるかが問題であり、その中心は大正生まれの世代だった。

 少なくとも、「俳句研究」等の総合俳誌ではそれが「現在」の課題であると認識された節がある(実際は、「俳句研究」と「俳句」等の他総合俳誌では時代認識が異なるのだが、今回は触れない)。

 例えば、「俳句研究」昭和44年9月号に掲載された赤尾兜子と藤田湘子による対談「新大家論」を見てみよう。下記は主に赤尾の発言である。

赤尾 革新派ということでいえば、やっぱり金子兜太でしょう、なんといっても。(略)金子は、やはり昭和戦後俳壇のかがやける旗手ですね。ただ、さきほどいったけど、やっぱり不幸なる谷間の世代に生まれたために、俳壇を数で勝負する。経営その他に、あまりにも力を使いすぎている。これは金子ほどの作家なら、もっともすべきことではない。(略)金子は、やっぱり詩のために殉死すべきである。(中略)

赤尾 もう一つ望蜀の言を吐くと、金子を革新派の最高のリーダーと認めたうえで、金子にはすこしエリート意識の過剰すぎるところがある。本人はそれほど気づいていないだろうし、エリートとはもともとそういうもんなんだが、金子は革新派のくせに、その生いたちは、ずっと俳壇の日のあたる場所を歩いてきた。加藤楸邨門というのもそうだし、一時「風」に拠り、そして東大派であることもそうです。(略)エリートであることを悪いとは思わない。ただ、前衛俳句をぜんぶ自分の意見のもとに総括しなきゃ承知しない横暴面がときどき出るが、それはよろしくない。金子も、もっと大きくならなければいけないな、ぼくにいわせたら。

赤尾 わが住む関西をいうと、革新派の鈴木六林男、林田紀音夫。この人たちはそんなに派手ではないけれども、ついに俳句と死ぬというような根性がある。時流に憂身をやつさない不動の、ふてくされのような精神さえある。だから前衛俳句がかなり衰退していると騒がれても、そういうことにほとんど動揺しない。ぼくでさえ驚くほど土性骨がある。

藤田 鈴木六林男という人は、ぼくは七月号の座談会ではじめて会ったんだが、ああいうタイプの人、関東にはいませんね。それに伝統派にもいないタイプだ。直感で本物とわかる俳人はあまりいないんだけれども、その数すくないひとりだって感じがしたな。            (「新大家論」)

 赤尾兜子は、革新派のリーダーとして金子兜太を最大限に評価しつつも、金子が自らを「詩のために殉死」する俳人と規定しえないタイプであること、何よりそれが許されない時代が到来しつつあることを喝破している。

 右肩上がりの高度経済成長によって暮らしは豊かになり、俳人協会・現代俳句協会双方の組織運営も発展を遂げつつあった1970年前後において、「俳壇を数で勝負」出来るか否かが俳人の価値となる時代はすでに訪れつつあったのだ(今一つの総合俳誌「俳句」を見ると、そのことがよく分かる)。

 それに対し、兜子は「そんなに派手ではないけれども、ついに俳句と死ぬというような根性」を持つ俳人として鈴木六林男(1919~2004)と林田紀音夫(1924~1998)の名を挙げた。彼らは「時流に憂身をやつさない」というより、時流に乗ろうとしても外れてしまうこだわりや泥臭さを持ち合わせた俳人に他ならなかった。

   いつか星空屈葬のほかは許されず   紀音夫 (昭和38年)

   暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり     六林男 (同 25年)

 流露するナルシシズムを屈折した表現でかろうじて踏みとどまる紀音夫、かたや迫力で作品を押し通そうとする六林男。

 高浜虚子や山口誓子、中村草田男といった天才から遠く離れた二人は、詩のミューズを味方にできず、かといって大衆受けの作品をまとめる処世の器用さもなく、自らの信条と侠気を頼りに史上の傑作を詠もうとあがく俳人だった。

 小説や現代詩もあったろう、文学を捨てて実業の世界に邁進する道もあったろう。しかし、彼らは俳句にこだわってしまった。その俳句への「ふてくされのような精神さえ」抱きながら、結局俳句から離れえない諦めの中で、俳句と心中するという感傷とふてぶてしさとを作品に宿らせ、自身こそ新興俳句の末裔と吼える彼らを、兜子は「わが住む関西」の同志と称えたのである。

 先に引用した対談に戻ると、藤田湘子は鈴木六林男と会った際に「本物」を感じたという。六林男が大阪岸和田出身で、南大阪人特有の“濃さ”もあったろうが、「ついに俳句と死ぬ」ことを信条として担ぎ出す他に取り柄のない俳人だけが持ちうる迫力と厄介さとを、湘子は六林男に嗅ぎとったのかもしれない。

 いずれにせよ、「馬酔木」出身にして「鷹」を率いる湘子にとって六林男は泥臭い俳人だったはずだ。関東の金子兜太のように「俳壇の日のあたる場所」(兜子)を歩むことができず、日陰の道でとぐろを巻いて「ふてくされのような精神」を持てあまし、面倒で厄介な「前衛」の臭いを振りまいたのは、関西の鈴木六林男であった。

   銭湯に眼つむり笑い上陸兵      六林男 (『櫻島』)

◆「関西俳句の今昔6(最終回) 鈴木六林男」: 青木 亮人(あおき・まこと)◆

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