■2013年11月 青年部連載エッセイ 関西俳句の今昔3 俳誌「青」の写生論青木亮人近現代俳句の「写生」を考える時、常に示唆を与えてくれる雑誌がある。高浜虚子主宰「ホトトギス」はいうまでもないが、波多野爽波主宰「青」も多くのヒントに富む俳誌の一つだ。 「青」は昭和28(1953)年に京都で刊行された。主宰の爽波が京都に住んでいたためで――京都大学卒業後、三井生命保険を経て三和銀行に勤めていた――、後に彼が神戸、徳島に引っ越した後も発行所は京都市に置かれた。 たとえば、爽波が徳島で銀行支店長職に就いた時期(昭和45~49)も「青」発行所は「京都市左京区下鴨宮河町54」となっている。下鴨神社近くの、鴨川の三角州あたりだ。 ところで、この時期の「青」昭和47年6月号に座談会「写生というもの」が掲載された。爽波、竹中宏、中杉隆世の三人によるもので、主に爽波が竹中に「写生」について質問を重ね、竹中がそれに答える…という流れの座談である。 座談会を読むと、爽波は竹中が「写生」の本質を的確に捉えていることに驚くとともに、その「写生」論をより深く掘り下げることで自らの俳句観を確かめつつ、竹中という俳人を知ろうとしている様子がうかがえる。加えて、両者の「写生」に対する認識の鋭さに感嘆する箇所も多い。たとえば、次のくだりを見てみよう。 爽波 (略)僕がホトトギスに飛び込んだ頃は草田男の 金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り の句がバーンと巻頭に出てるんだから、皆びっくりしちゃいますよね。本当に。(略) そりゃ、あの句でもね、意味性とかそういうことばっかり皆言うんですよね。某々を憎悪してとかどうとかね。確かにそういう状況もあったかと思いますよ。しかし僕はね、あれ実景としてあるもんね、金魚がね。昔、肉屋があったら、その店頭にはきまって金魚鉢が置いてありましたよ。それで、ある精神状態でそういう所をふっと通りがかってね。ふだんはあたりまえの事と見過ごしてた事が、非常にある意外性をもって胸にぐっと来たんですよ。 だからあの句は、憎悪の念にかられて頭の中で作られたような句では決してないんですよ。やっぱし、肉屋の前を通りすがった時に、むこうから来たものですよ。そこが解ったから虚子先生は採ったわけですよ。その頃のホトトギスの巻頭というのは大変なものでしたからね。 先生としても、こんな句を巻頭なんかに据えたら皆から非難を浴びることを重々承知の上で敢えて採って巻頭に置いたわけですよ。ということは、この句は先生の考えている写生というものに立脚している句である。観念に逸脱した句じゃないという判定がはっきりとこの句に下っているわけですよ。僕はあの句はそういう現実体験のところから来ている句だと確信しますね。(略) それから、ここで補足しておきたいのは、写生というのは真正面から来たものだけが正しい写生句とうものじゃないということ。横から来たり、斜めからスッと来たりしたような句は、正しい写生句じゃないんだというような偏狭な態度ではいかんのですね。 宏 「金魚手向けん」というような句が出て来た時に、選者としてどうするかという問題にも繋がるわけですね。 爽波 だから、虚子先生だって、あれだけ写生という事を終始説いておりながら、「心の一方は常に天の一角に遊ばせておれ」という事を言っていますわね。やはり、目の前のものばかり見てるっていうんじゃ駄目で、心のある部分はいつも天の一角に遊ばせておらないとね。これもやっぱり自由闊達というか、受け入れの態度の一つのある表現だと理解しているんですがね。(「写生というもの」) 爽波は「金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り 草田男」(「ホトトギス」昭和14年7月号、雑詠欄巻頭句)を取り上げつつ、「写生」がいかなるものかを説いている。すなわち、草田男句は「憎悪の念にかられて頭の中で作られたような句では決してないんですよ。やっぱし、肉屋の前を通りすがった時に、むこうから来たものですよ」というのだ。 私たちの頭には先入観や固定観念、または類句、類想がぎっしり詰まっており、それらを振り払って眼前の事物を新鮮に眺めることは難しい。その点、いつもの私たちは現実を見ているのでなく、「そうであるだろう、そうであってほしい」イメージを現実に見ているに過ぎないのだ。 それゆえに「むこうから来たもの」にどれだけ「自由闊達」(爽波の発言)たりうるか、そこが「写生」の要諦であり、また草田男句の凄さは内容云々より「むこうから来たもの」を闊達に捉えた点にあるのだ、と爽波は説くのである。 この座談会「写生というもの」は読み応えがあり、上記引用文の「金魚」句と「選」に関する話題(後半あたり)も、「写生」の重要な問題がさりげなく触れられている。 波多野爽波は昭和37年に現代俳句協会関西地区が発足した際、赤尾兜子や鈴木六林男、林田紀音夫、島津亮らと名を連ねた俳人だった。つまり、現代俳句協会に属する爽波の主宰俳誌で「写生」の本質的な議論がなされたのであり、またその多くが関西在住の俳人(竹中宏は京都在住)だったことは、戦後俳句のありようを考える上で多くの示唆を与える出来事だったといえよう。 ◆「関西俳句の今昔3 俳誌『青』の写生論」: 青木 亮人(あおき・まこと)◆ |