■青年部連載エッセイ 関西俳句の今昔2 頭が変になる青木亮人大学院で俳句研究をし始めた頃、句会にもいくつか参加させていただくようになったが、凄いと感じたのは京都の「破の会」だった。岩城久治(敬称略、以下同)、竹中宏、中村堯子、彌榮浩樹ら俳人勢に加え、島本浣(フランス美術研究者)、山田喜代春(版画家)、樋口由紀子(川柳)が集い、夕方から深更まで句会と議論にふける会である。句会は一人五句、五句選で、作品は次のようなものだ。 五寸釘そこから野兎が垂れり いずれも一筋縄でいかない、手強い句ばかりで、常に五句を選ぶのに難儀した。上記作品は分かりやすい方だが――句の目指すところは厄介だが、語彙は簡単だ――他は漢語の意味が分からない句や難解な内容の句が居並び、作品の異様さは他のどの句会とも異なるものだった。 この会が凄いのは、ヘンな作品が多いにも関わらず各人の選評が的確かつ鋭い上に、作品の特徴や構造、可能性等を丸ごと見抜き、それを俎上に乗せる議論が行われる点である。 その句がどのように成立し、どこへ向かおうとしている(もしくは「していた」)のか。なぜその言葉が置かれたのか、作者は何をもって「俳句」と見なしているのか、これらを分析しつつ解釈を重ねる議論が、そのまま「俳句とは何か」「言語表現とは何か」という本質的な問題へ発展していく。 句意を定める、または技術的な上手・下手を論じあう、そして作品の好悪を述べることは他の句会に多かったが、俳句やその作家の本質を探りあてようと議論に花が咲くのは破の会のみだった。 ただ、「破の会」は一般的な俳句とかけ離れた作品が多い上に議論が玄人にとっての本質論になりがちなため、気付くと「俳句界一般の感覚・価値観」が分からなくなっていた。 そのためか、「ヘンな作品」に目が留まるようになり、他の句会で多くの方と異なる作品を選んだり、研究会で話が合わなかったりと微妙な孤独を感じることも少なくない。 俳句にのめりこみ、数十年に渡り本質を探ろうと試行錯誤を重ねた玄人の話に接し続けると、それがいつしか「俳句」の基準となり、私の脳内で一般常識や感覚が追いやられたのだろう。それが幸福なのか不幸なのかは、今もよく分からない。 「破の会」が平成京都の奇妙な句会とすれば、敗戦直後の京都のヘンな集まりといえば、西東三鬼の関わった句会であろう。 近代俳句研究者にして実作者の松井利彦が京都にいた時、鈴鹿野風呂に次のような相談をしたという。 三鬼さんの名前は昭和二十三年に大雲院内の末寺で見たことがあった。寺の入口に句会の案内が貼ってあった中に、「西東三鬼、橋本多佳子、平畑静塔」と指導者として名前があった。その頃は野風呂指導の句会に出ていたので野風呂先生に出たいということをお尋ねしたところ、あの句会に出ると頭が変になるから止めときなさいということであった。 (松井、「天佰」平成九年八月号) 大雲院は円山公園近くの寺院で、三鬼たちはそこで句会をしていたらしい。松井が野風呂に相談したところ、「頭が変になるから止めときなさい」と言われたというのだ。 それもそうだろう。三鬼、多佳子、静塔の居並ぶ句会が普通であるはずがない。この時期、彼らは次のような作品を詠んでいたのだ。 誕生日蛇行の跡を正午とし 三鬼 喪の顔を向けゐる卯の花腐しかな 多佳子 梅噛んでがっしと閉める冷蔵庫 静塔 (「天狼」昭和二十三年七月号、同人欄より) 多佳子句はまだしも、三鬼と静塔の句は笑いたくなるほどヘンであり、一般的な句会であれば見向きもされないだろう。こんな句が飛びかう句会に参加し続けると常識的な俳句観や選句感覚が消し飛び、生涯に渡り「ヘンな句」を追い求めることになりかねない。穏健な鈴鹿野風呂が「止めときなさい」と忠告したのも当然である。 フランスの文豪スタンダールは、エピグラフに「to the happy few」(少数の幸福な読者へ)と記すことを好んだ。個人的には、昭和二十年代の三鬼や静塔、そして平成年間の竹中宏や岩城久治も「to the happy few」と願いつつ作品を詠む俳人に感じられる。 ただ、「happy」が何を意味するかは、俳人によって受け取り方が異なるだろう。少なくとも研究者の私は文字通り「happy」と受け取ってしまったタイプだが、果たして「ヘンな句」ばかり追い求めていいのか、今も考えることがある。 ◆「関西俳句の今昔2 頭が変になる」: 青木 亮人(あおき・まこと)◆ |