関西現代俳句協会

■青年部連載エッセイ

関西俳句の今昔1 西東三鬼

青木亮人



 敗戦直後の焼け野原がいたるところに残る頃、東京の石橋辰之助と東京三(秋元不死男)が関西を訪れたことがあった。

 両者ともに戦前の新興俳句弾圧で句作を断念させられた経緯があるため、関西在住の旧友と再び俳句談義や句会に熱中できることに昂揚し、京都や奈良、大阪、神戸などで俳人たちと大いに語り、論じあったらしい。

 当時、関西圏には新興俳句に関わった俳人が多く住んでいた。伊勢の山口誓子、奈良に橋本多佳子、京都には元「京大俳句」関係者に加えて山本健吉がおり、また大阪では日野草城及び「太陽系」グループが――若き赤尾兜子や鈴木六林男もその一員だった――活動し、そして神戸には西東三鬼が居を構えていた。

 石橋、秋元が夢中になったのも無理はなく、特に「京大俳句」の人々とは意気投合し、「こんなに迄心から許し合ひ、争ひ合へるといふのは一体、これはどうしたわけなんだねと小首をかしげる京三の帰京後の感想も、今日この頃の言葉として再出発に当り重要でなければならない」(石橋「旅数日」、「現代俳句」昭和22年2月号)と新興俳句の「再出発」への思いを新たにするものだった。

 加えて、関西には石橋・秋元があきれるほど俳句にハマッた人物がいた。西東三鬼である。

「神戸に居を構へ、無茶な戦争に逢つたとはいへ戦時中からの作句欲は休戦とともに完全に俳句の鬼となり、西下する二人を好もしき餌とばかり待ち構へてゐたのである。先頃西下した三谷昭はこのわなに意識してかゝつたとはいふものゝ、とにかく骨の骨までしやぶらずんば止むべからざるの勢ひに圧倒されて帰京、「あの作句欲にはかなわんよ、軽く受け流さうにも逃げられず、てんで寝かさんのだからね」と。」(石橋「旅数日」)

 石橋たちは前もって「俳句の鬼」の噂を聞いており、覚悟して家に乗り込んだが、「三鬼は近作百数十句を示し、これを即刻に批判せよといふ。これを餌としつゝ深更に及ぶも、主人は我等の疲れを一向頓着せず、はては「鶴」掲載の「鶴と古典」たる一文を引つ張り出し、我乍らよく書けてゐる、これを読んだら寝かせてやると迫る次第」(石橋「旅数日」)。

 全く寝かせてくれず、ようやく秋元が隙を見て寝落ちしたため三鬼は諦めたらしいが、初日でこのありさま、二日目、三日目も延々と俳句談義に耽ったらしい。

 石橋や秋元同様、三鬼も戦前に国家権力による俳句放棄を余儀なくされた俳人だったが、敗戦直後の爆発的な「作句欲」たるや、石橋たちがあ然とする凄さだったことがうかがえる。

 石橋の三鬼宅訪問記が掲載された三ヶ月後、三鬼は「現代俳句」に一挙50句を発表した。

    中年や独語おどろく冬の坂

    中年や遠くみのれる夜の桃

    穀象の一匹だにも振り向かず

    みな大き袋を負へり雁渡る

    雄鶏や落葉の下に何もなき

    露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

    枯蓮のうごく時来てみなうごく

    まくなぎの阿鼻叫喚をひとり聴く

    大寒や転びて諸手つく悲しさ

    赤き火事哄笑せしが今日黒し

(他句略、「現代俳句」昭和22年5月号)

 

 紙幅の都合上、句意等は省くが、これらの句群を前にすると石橋や秋元らが圧倒されたのも無理はない、と思いたくなる。

 ところで、私たちは三鬼の「作句欲」に何を想えばよいのだろう。親近感や懐かしさ、仰ぎみる憧れ、はるかな遠さ、または嘆きやあきらめ・・・・・・もしくは対抗心を抱くべきか、偉大さを見るべきなのか。

 そもそも、消毒と洗練を身にまとい、平和と安寧に浸る平成年間の私たちは、敗戦直後の三鬼の情熱に共感することなどできるのだろうか。

 西東三鬼と私たちの溝は深く、大きい。それはもう六十年以上も前のことなのだ。

◆「関西俳句の今昔1 西東三鬼」: 青木 亮人(あおき・まこと)◆


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