■俳句鑑賞 11月1日号俳句作品鑑賞田島健一秋晴れや探検ごっこについてゆく 何か得体のしれない場所へ、秋晴れの明るさのなかをついていく。大事なことは、それが「探検」ではなく、「探検」の「ごっこ遊び」だということをこの句の主体が「知っている」ことだ。それは本物の「探検」であるために必要な「何か」が欠けている。けれども、欠けているがゆえにそれを句として詠むことのモチベーションにつながっている。この句のもっている気分は、その欠落にこそ支えられていて、この「探検ごっこ」がそうした欠落を埋めるであろう「何か」を決して発見できないことを、この句の主体は「知っている」のである。そして、その「知っている」という一点において、主体はこの句をしっかりと統べているのだ。 色鳥や夢見るように二胡を弾き 「夢見るように」とは、つまりそれが「夢ではない」ということだ。では、ここで敢えて「夢見るように(=夢ではない)」と言うことに、どのような意味があるのだろう。言った瞬間に否定される「夢」は、この句の中七に「現れて、消える」。見逃してならないのは、この句の主体にとっての現実は、この「夢」の側にあるということだ。日常を象徴する「色鳥」の色や「二胡」という楽器の美しさがある種の重みを持つのは、その夢が司る「現実」をくぐらせてこそ、なのである。
秋の虹電話している人ばかり 淡く儚い秋の虹のもとで、「彼ら」が電話で繋がる相手は見えていない。もちろん「彼ら」自身も世界の何処からか呼びかけられている見えない接続先のひとつひとつである。消えやすい声の連鎖。「秋の虹」は、その連鎖を構成する、肉体を持たない主体のひとつのようにも感じられる。そして、その連鎖を見つめている作者の視線は、むしろありありと消すことのできない自己と向き合っているようでもある。句の起点に消せない肉体がある、ということがこの句のシリアスな中心を構成している。読み手の視線は、その起点に重なり、同調し、共感するのである。 紅葉且つ散る避妊具の落し物 「紅葉且つ散る」という古風で優美な景のなかに、唐突に現れた「避妊具」は、まるで場所をわきまえず、読み手の視野を埋め尽くす「異物」に他ならない。この「避妊具」の必然性の無さを責めてはならない。むしろ、その必然性の無さによって、それは「謎」と化し主体化する。もしこの「避妊具」に作為を感じるのであれば、それはすでにその「主体化」した「避妊具」の他者性に巻き込まれているのだ。「そんな存在理由のないものを、そこに置いたあなた(作者)の意図は何なのか」。言うなれば、そのような他者性こそが「美」であるとは言えないか。決して心地のよさだけでなく、あるときは不愉快で不埒で不可解な、読み手の内の戸惑いの声を増幅させる、そんな作用を私達は「美」と呼ぶのではないだろうか。
割り箸がきれいに割れて涼新た 世界が変化するには、何かきっかけが必要だ。「涼新た」という季語にも、そんな「きっかけ」があるはずで、掲句ではそれは「割り箸がきれいに割れ」たことだという。そんな些細なことが、そこでそのときだけ「きれいに」実現する。そんな「きれい」さは、通常はことばで説明のしようがないものだけれど、「涼新た」という季語との響きあいのなかでまるで小さな魔法のように「きれい」という、見えないはずの光が見えてくる。その「きれい」さが、その主体のためだけに開かれるということが、俳句のちからなのだろう。俳句は、その「きれい」さが解る者にだけ、解るものとして世界を開いてくれる。その些細な出来事が、あたかも彼のためだけに用意されていたかのように。かけがえのないものとして。 長き夜の充電中の機器四つ 俳句における「主体」とは、事実としての人間─例えば作者や読者─のことであると考えられていないだろうか。つまり句に主題として書かれた何者かであると。掲句は、そのような一般的な理解に反して、夜の「機器」たちがまるで黒い獣のように呼吸をしながら光る四つの眼でこちらを見つめているようではないか。つまり「主体」とは、そこで「主体化」するダイナミズムそのものの名前である。それはあたかも句に書き込まれているように見えながら、実は読み手の中に生まれる強迫観念のようなものである。それを幻と言ってはならない。それはありありと読み手の視野を支配するのだから。そのような支配者、それは掲句の場合、「四つ」という理由の解らない数字である。それは偶然で、非機能的でありながら、動かすことができない(ような気がして仕方がない)。それを「四つ」だと断定する「誰か」の視野と同一化することで、読み手はその主体そのものに囚われる。それが、俳句を「読む」ということの輝かしい仕組みのすべてなのである。
◆「11月1日号俳句作品鑑賞」: 田島健一(たじま・けんいち)◆ |