■俳句鑑賞 10月1日号俳句作品鑑賞伊藤弘高ほととぎす幾年なけど恋はじめ ここでいう「幾年なけど」は一世代の時鳥を指しているのでは無いと思われる。連綿と続く生命の賛歌を謳い上げているのであろう。 朧夜の水になって壊す恋 掲句を一読し、先ず疑問に思ったのは、水になる対象は一体なんなのか?ということ。自分自身が水になって恋を壊したいと願う気持ちだろうか。朧夜という水蒸気量の多い夜というのがポイント。 くちべにのあつさも知らぬ黒髪よ 黒髪といえば、まず与謝野晶子の「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」が思いうかぶ。晶子の凄さは自分のことを自信過剰にうつくしいと表現しきったところにあると私は思う。対して、掲句は晶子に比べて奥ゆかしい。控えめな表現の奥に秘められた情熱が垣間見える句になることを期待したい。 ハンテンが隠さぬ脚の黒タイツ 半纏は冬の季語であるから寒さの厳しい季節にも、足元は黒タイツだけで気合いを入れているのだろう。半纏を着て外出はしないだろうから、家族や友人宅での景か。 白き腹見せた金魚射す陽かな 金魚が鉢の中で一瞬腹を見せたのだろう。その瞬間に、陽射しが反射した情景を「金魚射す陽かな」と詠んだところが面白い。 空蝉になりたい皮の下着かな 皮の下着という俗っぽいモノと空蝉という儚いモノとの取り合わせが魅力的な句。「空蝉になりたい」がなれない作者の自画像なのだろうか。
黒南風の松を均していたるかな 松は防風林として使われることが多い。長い年月をかけて潮風に耐えるうちに林全体があたかも一つの巨大な生物であるかのように均されてゆく。松林に黒南風が当たる一刹那を描いた風景画のよう。 その後の裁きを知らず羽抜鳥 新聞やニュースで耳にした事件であろうか、それともテレビドラマや映画のシーンであろうか。我々が生活している中で、騒動の結論を知らないままに過ごしていることは意外に多い気がする。逆に言えば、結論を知らなくても良いような、生活する上で支障のない無駄な情報が多いということなのかもしれない。時間の経過を羽抜鶏で表現した滑稽味も良い。 金亀子影を待たずに転げ落ち 金亀子が転げ落ちた。あまりの展開の速さに、作者の眼には金亀子が落ちる速さに影が付いて行けていないように感じたと。実際には、金亀子の落花と一緒に影も動いているはずであるが、少なくとも作者はそう感じたのである。 中空を真闇と思う立葵 中空には星のひとつぐらい輝いていたのかも知れない。しかしながら、作者は「中空を真闇と思う」と言い切った。中空から宇宙へと広がってゆく闇の存在を暗示しているのだろうか。立葵のすくと立ち上がる情景が真闇と言い切ったことでさらに強調された。 水澄まし言葉を覚え始めけり 子供が言葉を覚え始めることを詠んでいるだけなのだが、幽かだがはっきりと水の上を進んでいる水澄ましを持ってきたことで、子供の成長をしっかり描写している。曖昧なものではなく、確実に捉えられる現象を好む作者の特長が良く表れている。 山蟻を遊ばせている腕時計 「山蟻を遊ばせている」までは、ありがちな表現だと思う。普通は自分の身体の一部(腕や脚)などを持って来そうなものだが、腕時計という即物的なもの、さらに時間を刻むものを持ってきたことで、時間の感覚やモノの質感まで取り込もうとする意欲が心憎い。
仏桑華色の箸置く潮騒に 海辺のテラスで食事を終えて、ハイビスカス色の箸をそっと置く情景と見た。ハイビスカスと海ではリゾート感が出てしまい、句にはなるまい。潮騒に、仏桑華色の、箸を置いた、と表現したところに作者の力量を感じる。 いっせいに魚ふりむく晩夏かな 「ふりむく」の擬人化が上手い。魚が方向を変えることは振り向くのでは無く、前に進む方向を変えたに過ぎない。振り向くように見えたのは作者の視点である。晩夏という季語がそうさせたのか。 しんがりは浮輪の砂を払いつつ 列の最後の子供だけ浮輪の砂を気にしている。気にしているからしんがりになったのか、しんがりだから気になったのか。一読単純に見えて、様々な想像が出来る句である。 サーファーをじっくり選ぶ赤とんぼ 赤とんぼが、どのサーフボードにとまるかを見ている光景。作者の眼を通すと、赤とんぼが自分の意思で、サーファーを選んでいるかのように見える。さり気なく、生物に自身を反映させるのが上手い。 漆黒を支えきれない星は飛ぶ 非常にユニークな句である。星が飛ぶのは漆黒を支えきれないからだと。「支えきれない」がまるで作者自身のことのようにも読める。 いつの日か金網越える秋桜 上五、中七がやや標語めいているが、これも作者の意図した表現だと思う。秋桜を自身と重ね合わせているのだろう。
◆「10月1日号俳句作品鑑賞」: 伊藤 弘高(いとう・ひろたか)◆ |