■俳句鑑賞 8月25日号俳句作品鑑賞五島高資真つすぐな背骨初蝉聴いてをり 岡田由季 本来、ヒトの背骨は側面から見れば頸椎、胸椎、腰椎、仙椎の各部位で彎曲を有しており、この生理的彎曲によって直立二足歩行に必要なバランスが保たれている。しかし、生まれたばかりでまだ立って歩けない赤ちゃんは成人に比べて真っ直ぐな背骨をしている。したがって、人が背骨を真っ直ぐに正すとき、その姿勢は原初の形へと復帰することになる。それはまた背中から殻を破って生まれたばかりの初々しい蝉の姿をも彷彿とさせる。ほんとうにうつくしい初蝉の鳴き声は、固定観念に囚われた大人の耳ではなく、童心の耳にこそよく聞こえてくるのだと思う。 空蝉を集めすぎたる家族かな 岡田由季 空蝉はもちろん蝉の脱殻だと思うが、現人にも通じることを思えば、家族との詩的共鳴が絶妙である。たくさんの空蝉には寂寥を禁じ得ないが、その奥にある大悲の心に救われる家族の在り方もまた見えてくるような気がする。
それぞれの日傘の中の鬼子母神 佐々木千香 周知のように鬼子母神は、当初、他人の子供を殺して食べる夜叉だったが、釈迦の教導によって逆に子供と安産の守護神・訶梨帝母となる。右手に持つザクロの実は吉祥果とも言われ、子孫繁栄の象徴とされている。掲句では、「それぞれ」とあるので幾人かの女性が日傘を持って集まっている様子が想像される。何かの行事で我が子の帰りを待つ母親たちかもしれない。母親同士では、受験戦争など色々な競争で危うい関係性があるのかもしれないが、そうした社会的な自利を超えた利他の精神を作者は日傘の中に見出したのだろう。 水の玉腕に抱き女郎蜘蛛 佐々木千香 妖怪の絡新婦(女郎蜘蛛)は、火を噴く子蜘蛛達を糸で操る蜘蛛女の姿をしている。そこには母子にまつわる怨念を感じさせる。しかし、掲句の蜘蛛が手にしているのは火炎ではなく水玉であり、そこにこの世の儚さが感じられると共に玉の緒へとつづく一筋の救いも見えてくる。
プロポーズ享けて泉に手を浸す 塩見恵介 当然のことだが、私たちの生命は、この地球上に生物が誕生した太古から途切れることなく連綿と続いてきたものである。そう思えば、いまここに生きていること自体が奇跡である。そうした奇跡と奇跡の果てに男女が巡り会って新しい生命が引き継がれていく。そうした男女の邂逅に際して、古代日本をはじめ東アジアにおいては、歌垣が重要な役割を果たした。新しい生命の誕生には、言葉による交歓が不可欠であったのである。プロポーズの言葉もまた然りである。人における生命のリレーにおいて言葉は今も重要な役割を担っていると言える。言霊の幸ふ国という表現はまさに言葉が生命と同じくらい貴いということを如実に示している。貴い言葉を受けて手を差し伸べた泉はまさに生命の源と共鳴する。 空を脱ぐたび風鈴は鳴るのです 塩見恵介 まさに殻を脱いで羽化する蝉の姿を彷彿とさせる。しかし、作者が詠んでいるのは風鈴である。無生物にまで生命を感じさせるのは、音の働きによるのだと思う。風鈴から発せられた音は大気を揺るがして空の彼方へと離れていく。その一鈴一鈴の刹那にこそ玉響の生命を聴く思いがする。
◆「8月25日号俳句作品鑑賞」: 五島 高資(ごとう・たかとし)◆ |