私 磯野香澄の句碑建立について
《親王ヘ火の文字今も里の盆 香澄》
〈ツケボクロ〉私信、一
私、磯野香澄の句碑《親王ヘ火の文字今も里の盆》が私の故郷の高雲寺に、平成二十二年八月二十四日に建立、お披露目された。この場所は私が二十一歳迄育った家の上で、千二百年前に悲運の惟高親王を匿ってお世話した高雲殿の庭だ。今は高雲寺と呼んでいて、親王をお慰めするのに始めたと言う火の文字を向かいの山に、毎年上げて千二百年経った今も続けている。向かいの山は隣の集落の持ち山なので、そこに火の文字を上げるのに、隣の集落へ行って向かいの山に「火の文字を上げるのに使わせて欲しい」と頼んだ。その時の約束(隣の集落にも火の文字を見える様にする)を果して毎年同じ様に隣の集落にも文字が見える様に角度を変えて見て貰っている。 その親王が火の文字を見られた寝殿の庭に、私の句碑が建ったのだ。松明上げの火は夜の八時から向かいの山に上げられて、火文字を上げた若衆が、その山から松明を持って足元を照らしながら、寝殿へ戻って来る。その持って帰った松明を最後に一つに組んで燃やすのだが、その明かりで私の句碑の文字が見えて、幻想的な感じになったと思っている。事実幻想的でとても良かったと見て来た人が話してくれた。又丁度この日は毎月の句会を催していたので「句会が終わったら句碑を見て来て」と言って、会員五人で見に行って貰った。又その夜になって火の文字が上がる時間に、私を介護してくれているヘルパーさんが三人で見に行ってくれた。こうして一応八人が句碑の建立を見届けてくれた事になった。 惟高親王の事は今迄は各家々で口伝えして来た。それは暗殺に追われる親王を匿ったので、それを口外してはならないので外部に知られない様にして来たのだ。 ところが近年になって梅原猛氏が古代の研究をしておられて、雲ヶ畑へも調べに入られた。 その時、よその村には惟高親王の遺物が有るが雲ヶ畑には何も無いと言ってその研究の中に記されなかった。私はここで自分の家の口伝やそれを裏付ける物や事柄を拾って実在の裏付に立った物を書き残して置かないと、梅原さんに雲ヶ畑に惟高親王がおられた事を抹消されてしまうと思い、時代も変って親王を匿った事を発表してもいいだろうと[親王をお守りした村人]と言う題名の本を書いた。 この本は京都府の資料館に保存して貰っている。又この本は府の資料館から[京都叙情]と題した私の観光用に編集した俳句集(現代語訳付き)を資料館から寄贈して欲しいとご依頼があって、その時に「他に[親王をお守りした村人]も有るので」と一緒に寄贈させて貰った。 こうしておけば私達の先祖の優しかった行為が抹消される事無く後世に伝えられると思っている。又、惟高親王をお慰めした時に始めた松明上げが千二百年、一度も欠かす事無く続けて来たことが生きた証として今も行われている。 私の句碑の《親王へ火の文字今も里の盆》は親王をお慰めした時から、何年経ってもその火の文字を上げているその時迄の事を、詠んでいるのでどれだけ時間が経っても「今」なので永久に古くならない。こうしてこの千二百年に渉る経緯を十七文字に託して、末長く知って欲しいと言う願いを込めて石に刻んだ。こうして置けば現実にその歴史が分かって貰えると、口伝書と共に後々にロマンに浸って貰えると建立を依頼した。 又この口伝書は映画のシナリオと同じくセリフとト書きで物語として一冊にしているが、その概略をここに書いてみると
今からほぼ千二百年前のある雪の降る日の夕方、雲ヶ畑に住み着いていた高橋を頼って惟高親王は、乳母だった人と二人で逃げて来られた。丁度その日は御所の支払いの日で孫太は材木の代金を受け取りに行った帰りに、二の瀬の永馬と言う人と出会う。その永馬と言う人は「惟高親王と乳母だった人が、雲ヶ畑の高橋さんの所へ頼って行かれるのを送って来た所だ」と言う。その永馬と言う人は親王の今迄の経過を孫太に話しする。家へ帰りついた孫太は親王と乳母だった人が既に家に辿り着いていて、帰りに永馬から聞いた話を親王に代って話す。そこへ集落の長が来て集落で守ってあげると言ってくれた。高橋は長のその言葉にほっとする。 寝殿を先ず建てて親王が暮らせる様にし、暗殺の追っ手が来ても分からない様にして、安泰に親王が暮らせる様にして守った。 (この事はもしばれたら、匿った自分達も危ないのを承知で集落を挙げて親王を守ったのである。 又これが体制側に貢献するのならばそれなりの見返りも有るだろうが、追われる身の親王を守っても、何の見返りも無い事を承知で、親王をお守りした。この先祖の心の優しさを思えば、敬慕するばかりだ。又その末裔である雲ヶ畑の村人の秘めた誇りでもある。) 御所へ帰る事の出来ない親王を気の毒に思った集落の皆が、京の山に空海が[大]の文字を火で書いた後も続けていた火の文字上げを、懐かしむ親王の気持ちを察して、寝殿の向かいの山に火の文字を上げてお慰めしてあげようと相談をする。しかし向かいの山は支流の集落の持ち山で、勝手に使う事は出来ない。そこで隣の集落へ行って「親王をお慰めしてあげたいと思うので、あの山に火の文字を上げるのに使わせて欲しい」と頼んだ。隣の集落の長は「親王を慰めてあげるのに使うのは良いけれど、高雲殿の方へ火の文字を見せたら、こっちの集落は火が燃えているのだけしか見えないから、こっちの集落へも文字が見える様にして欲しい。その条件でなら何時でも使って貰えば良い」と言った。 それから毎年盂蘭盆の八月二十四日に火の文字を上げて、親王をお慰めしてその時に隣の集落と交わした約束の、火の文字を隣の集落にも見える様に方向転換して見て貰っている。
村人は最初に交わした約束をずっと守って、毎年違った文字を上げて見せている。 この火の文字上げは親王を慰め、村人と馴染んだ親王は写経を教えたり色んな事教えて没年迄火の文字を上げて村人と共に楽しまれた。又親王亡き後も親王を偲んで今に至っている。 この物語を十七文字に綴って、石に刻んだのが今回その庭に建立した私の句碑だ。
平成二十二年九月 俳人 磯野香澄
(この文章はヤフーのブログ九月分に掲載していますが、今回関西現代俳句協会のこの欄にも載せて頂く事になりました)
心身がリフレッシュする高雲寺
この句碑の建てられている京都市北区雲ヶ畑の高雲寺ですが、この村は京都鴨川の上流の山間の村で川の流域に家が点在しているだけで、何も無い所です。どの家も石垣で平地を広めてそこに少しばかりの畑が付いているだけで材木が輸入木材に押されて村は限界集落になりつつあります。でもここに面白い現象が起こります。それはその高雲寺へ行った人はみんな体の疲れが取れて爽やかになってリフレッシュすると言うのです。私はこれは森林浴をすると、気分が良いのと同じで最近森林浴が体にどれだけ良いかを数値で出せる機械が出来て、今迄は人の気分でしか言えなかったのがはっきり現れる事になったのだそうです。又その体調が一ヶ月程持続するのだそうです。
私は雲ヶ畑の高雲寺は森林浴の効果と他に寺のいろんな要素が働いて、誰にでもはっきり分かるリフレッシュの様子が現れるのだと思います。疲れのきつい人程体がすっきりするらしいのです。
お寺は誰もいませんが、庭の奥に句碑が建っています。それと寺の横のお墓に私の句碑がもう一つ “大つらら故郷の谷の斧の音” というのを建てています。何も無い所ですが体がすっきりするのが自覚出来る爽やかな所です。又昔の侭を求められるにはもってこいの所です。京阪の出町柳駅から京都バスが出ていますので区役所の出張所で降りてすぐ上です。一度雲ヶ畑の空気で体の疲れを取りに行って見られたら如何でしょうか。
何も買う物は有りませんが今なら染め抜きの手拭いをくれると思います。出張所で聞いて下さい。
京都バスは朝八時十分京阪出町柳駅から、昼は地下鉄烏丸北大路東南のバス停から十二時三十分発、夕方は京阪出町柳駅から五時半と三回有ります。下りのバスで帰ろうと思えば二十分程時間が有ります。
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