関西現代俳句協会

2022年12月のエッセイ

俳句史というもの

木村和也

 およそ2千年前に、司馬遷によって『史記』が書かれた。『史記』は主として「本紀」と「列伝」から成るが、「本紀」12編に対して、「列伝」は70編から成っている。「列伝」は、歴史の裏舞台にあって歴史を支えた異色の人物たちのエピソードで彩られている。いわば「列伝」が、歴史の骨格の大きな部分を作っているのである。ここに歴史家司馬遷の発明がある。

 歴史は単純な年表でもなければ、歴史的事件を因果で結んだ、いわゆる歴史観によって直線的に整理された解釈でもない。それは、人間と人間が織りなしたドラマの集積なのだ。そして矛盾をはらんだ人間の1回限りの生がそれらのエピソードを支えている。

 俳句史というものを考える時も、『史記』における司馬遷の発明は大切な視点を提供してくれる。俳句史は有力結社の歴史でもなく、華々しく見える俳句運動の消長でもない。『史記』の「列伝」がそうであるように、俳句史とは、一人一人の俳人とその俳人によって創られたた作品の集積なのである。 

 歴史の客観的な事実自体に歴史的な意味はない。その事実がどういうふうに感じられ、どういうふうに考えられたかということが歴史なのである。「伯夷列伝」での伯夷・叔斉が、武王の紂王討伐を非難して首陽山にこもり餓死したという事実は、それに加えて、「天道是か非か」と述懐した司馬遷の嘆きがあってはじめて歴史として意味を持つのである。 

 人間の一生が理路整然としたものであるわけがないように、俳人たちの生涯とその作品も、理路整然と並んでいるわけではない。相矛盾したものが一つの運動の中にも一人の俳人の中にも併存しているからこそ、その運動のダイナミズムがあったのであり、彼の俳句もおもしろいのである。そしてそれを感じ取ることが歴史の面目なのではないか。

 大阪俳句史研究会によって進められている研究も、そのような視点で俳人と俳句を捉えようとしている。毎月、柿衞文庫で実施されている例会では、関西を中心とした俳人およびその作品に焦点を当てた発表と研究討議が行われている。

 9月のテーマは「京都時代の井泉水」というのであった。発表者は会員で尾崎放哉の研究家として知られる小山貴子氏。京都という地で放哉とクロスする井泉水の生涯の1シーンを、「失意から再生へ」という観点で捉えた発表であった。そこでは井泉水の俳句を新しい視点で再生させる試みがなされていた。これからも、歴史の中に忘れ去られようとしている俳句を、蘇らせるような研究が続けられたらと願っている。 

 歴史とは思い出すことだと言った評論家がいた。われわれも、さまざまな角度から、俳人とその俳句を、上手に思い出す作業をこれからも続けていきたいと思っている。

(以上)

◆俳句史というもの:木村和也(きむら・かずや)◆

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