関西現代俳句協会

2022年5月のエッセイ

わたしの体、わたしの血

池田奈加

 『僕の体を通った、僕の血が通った表現を突き詰めたい』

 応援しているアイドルが、とある雑誌でそう語った。折に触れ、彼の言葉にはハッとさせられるのだが、そのインタビューを読んだときも彼が選んだ言葉を噛み締めた。そうして自身に問いかける。
 わたしは、「わたしの体を通った、わたしの血が通った表現」というものを立ち止まって考えたことがあっただろうか、と。

 「血が通った」という言葉からは生命力や人間味という意味を受け取ることができる。フィクションであってもまるで実在しているかのような演技、迸る情熱を余すことなくぶつけるパフォーマンス。アイドルである彼の表現はひとつではない。どんな仕事であっても「血の通った表現」を貫く姿勢は、彼の誠実さを物語っている。

 わたしが俳句をはじめたきっかけは、現実逃避からだった。日々に息苦しさを感じ、それでもなにか形に残るものが作りたくてはじめた。今ではすっかり「作るのが当たり前」になってしまって、逃避どころか現実そのものになっている。わたしにとって俳句は、アイドルを応援することと同じだけ日々に欠かせないものになった。

 そんな自身に置き換えて考えると、やはりなかなか難しい。わたしの句は、フィクションが多い。ありもしないことばかり詠んでいる。これは現実逃避からではなくただの好みなのでここでは語らないが、ありもしない世界をあたかも存在するかのように描きたいという気持ちがあるからこそ、演劇やライブパフォーマンスというある種の「非現実」に身を置く彼の言葉が心に響いたのかもしれない。

 自分の経験や感性、感情や思考。そういうフィルターを通したときに生まれる一句。言葉の選び方だけでなく、視界の切り取り方、語感の捉え方まで幅広く作用するのが「わたしの体」で、その答えが「わたしの血」なのかもしれない。彼の言葉の意味とは異なるかもしれないが、一人の表現者(の端くれ)としてもう少し自分を信じてみようと励まされた。

 このエッセイを依頼されたとき、「わたしでよければぜひ」と意気込んだものの、安請け合いだっただろうかと反省している。なにしろエッセイを書くのははじめてで、慌てて「エッセイ 書き方」で検索を掛けたほどだ。読めども読めどもさっぱりわからず、当然のように時間だけが過ぎていった。さすがにまずいと思いつつも、楽しみにしていた雑誌を手に取り読んでいると、あの言葉があった。これは書くしかないと思った。エッセイの話がなければ、彼の言葉をここまで考えることもなかったかもしれない。ひとりごとのように呟いて終わっていたかもしれない。

 不思議な交差を経てエッセイを書いていることが、「わたしの体を通った、わたしの血が通った表現」の第一歩なのかもしれない。

(以上)

◆「わたしの体、わたしの血」:池田奈加(いけだ・なか)◆

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