関西現代俳句協会

2021年2月のエッセイ

形見の餅

上森敦代

 最近はいつでも手に入るようになったが、餅はお正月のたべものだった。年の瀬のあわただしい時期に、一家総出で餅つきをした覚えがある。物置から臼と杵を持ち出し、大量に糯米を蒸し、つき上がった、熱々の餅を丸めるのも楽しい一大行事だった。商売をしていた実家は、年末も大忙しで、母はその時間を作るのに大変だったようだが、そんなことにも気づかなかった。餅つきは、12月28日が定番だが、無理なら30日になった。29日は「くもち(苦餅)」と言って、縁起が悪いのだと教えられた。しかし、主人の家は「ふくもち(福餅)」と言って、29日につくものと決まっていたらしい。縁起担ぎにもいろいろあるようだ。

 父も母も歳をとったせいか、徐々に家族が少なくなったためか、いつの間にか我が家から餅つきという行事はなくなった。時を前後して、餅つき機なるものが、我が家にやってきた。餅つき機は母のお気に入りの道具となり、忙しい父を頼まなくても、一家が勢ぞろいしなくても、夜昼を問わず、母は、台所の片隅で、粛々とひとりで餅つきを楽しんでいた。お相伴に預かり、つき立ての餅を、大根おろしや砂糖醤油で食べていたこともあったが、そのあたりの記憶は定かではない。

 母が亡くなってからは、餅つき機を使うこともなくなった。ただ、パック入りの餅が、年末には大量にスーパーに並んだり、小売店の注文受注の広告が入るようになったりして、家で餅を準備しなくても困らなくなった。同時にお正月らしさも急激に影を潜めたように思う。鏡開きは、硬くなった餅を切り、餅のひびに入り込んだ黴をこそげ落とす、とても難儀な作業であったが、それでも不思議とその日を待ちわびたものだった。パックの鏡餅を愛用するようになった今では、それも懐かしい。

 思えば、母の餅つき機はその過渡期の産物のようでもある。

 餅つき機を愛用するようになった母は、小正月の頃にも、餅をつくようになった。なんでも、母の生家ではそういう習慣があったのだとか。いわゆる「寒の餅」である。餅の一部は、砂糖や、青のりや胡麻、干し海老、黒豆を混ぜ込んだ。そんなに硬くならないうちに、薄くスライスし、並べて乾かし、かき餅なった。揚げたてのかき餅は、おいしかったが、芯が残っていたり、割れたり、焦げたりと手作りの域を出るものではなかった。私がいくら喜んでも母は満足せず、完成を求めて試行錯誤を繰り返していたようだった。しかし、いつの間にか、そんなことも忘れてしまっていた。

 母が急逝してしばらくして、保存食の梅干しや梅酒、花梨の砂糖漬けの納められていた台所の棚を片付けていると、奥に瀬戸物の銘のある小箱があった。開けてみると色とりどりのかき餅が、ばらばらに、ざっくりと納められていて驚いた。時を経ているのに割れもせず、黴もせず、美しかった。それが、母の作ったものだとしたら、母の目指していた完成形だったに違いない。残念ながら、その真偽を確かめるすべは既になく、それが母の形見だったのかどうかは、今も決めかねている。

(以上)

◆「形見の餅」:上森敦代(うわもり・あつよ)◆

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