関西現代俳句協会

2020年8月のエッセイ

縁―正岡家の人々

瀬川照子

   

 日本がバブル経済に沸き立っていた頃、兵庫県伊丹市に博物館が新設されて、運よく学芸員として滑り込んだ。歴史専門の学芸員が主流の中で、私は異端の俳諧文学専攻で、役に立たず、民具や農具の整理のお手伝いをしていた。

 そんな折、伊丹在住の正岡忠三郎氏所蔵の子規関係の資料を拝借して「正岡子規展」の開催計画が専門委員会で決定し、突如、農具洗いから、特別展担当学芸員に指名された。青天の霹靂。無知識のまま、伊丹主基町の正岡家のドアをたたいた。
 忠三郎氏は、子規の妹律氏の御養子で、子規の遺品の相続者であった。市街地から少し離れ、まだ田園も残る静かな地域の、古い木造の正岡家。緊張でがちがちの私を、忠三郎氏は卒中療養で臥すベットの中から、優しい目線で迎えてくださった。

 以後、正岡家通いは、必ず忠三郎氏のベット脇での挨拶からはじまるのだが、お酒にまつわる昔の武勇伝からは程遠い優しさで、不自由ながら声をかけてくださることもしばしば。
 奥様のあや夫人は、細面のさっぱりなさった方で、「私、子規のことはあまり知らないのよ」と言いながら、お茶やお菓子を出してくださった。京大教授野上俊夫氏の令嬢で、黒縁の眼鏡からは、知的で育ちの好い率直さがあふれていた。

 子規の資料は皮のトランクにきっちり詰まっており、空襲の折には、このトランクを守る為、忠三郎氏は大奮闘したという代物である。
 その中には、子規の勝山小学校の賞状や教科書、少年期の漢詩、大学時代の英文レポート「詩人としての芭蕉」や『竹の里歌』・俳句分類原稿・彩色自画像・草花の水彩画・玩具帖など、今思うと宝の山。新米学芸員の私は、一点ずつ資料の形態を記録し写真を撮り、ひたすら子規の資料と向き合った。

 昭和48年1月、第1回特別展「正岡子規展」が伊丹市立博物館で開催され、初日に忠三郎氏がご子息の明氏が押す車椅子で来館。あや夫人から、「貴女よくやったわね」とねぎらってくださり、感激と疲労と緊張で、泣き崩れそうになった。

 昭和54年、私の手垢の付いたであろう資料は、設立された松山市立子規記念博物館の管理するところとなった。その後、私は俳諧俳句の資料館「柿衞文庫」の学芸員となり、専門を生かす職場を得た。

 平成14年、正岡家とのご縁で、「正岡子規・関西の子規山脈」を担当させて頂いた。忠三郎氏もあや夫人もお亡くなりになっていたが、「子規の資料を最初に整理した子」というレッテルが幸運を呼び、ご子息の浩様と明様に全面的にご協力を頂き、『仰臥漫録』の原本なども出展され、充実した展覧会を開くことが出来た。

 冗談から駒で、子規が日本の野球の普及に貢献したことより、「正岡子規記念伊丹野球大会」の開催を思い立ち、野球協会の協力も得て、野球大会を開催した。今でも毎年子規記念野球大会が行われ、優勝チームには正岡兄弟から賞状が渡されている。俳諧資料館の野球大会。訳の分からない企画だが、それを許す文化の幅がある良い時代であった。
 以来、正岡兄弟とは親しくしていただき、長きにわたり、手紙や電話で、何とか生きておりますメールを欠かしたことはない。私の宝物のようなご縁だ。

 調査に伺っていたころ、忠三郎氏から、秘書にならないかと、お声がけをいただいた。その頃、講談社版『子規全集』編集の為、司馬遼太郎氏等と共に、生涯を賭けた大仕事をなさっていたのである。もし秘書になっていたら、と思うと、波乱万丈、空恐ろしい気分になる。とにかく素敵な思い出である。

(以上)

◆「縁―正岡家の人々」:瀬川照子(せがわ・てるこ)◆

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