2019年3月のエッセイ初学のころ久保純夫俳句らしきものに携わったのは、今から半世紀以上前、中学生3年生のことである。川口一法先生。俳号は芳雨。教科担当は数学。その先生に俳句を教わった。数学の授業も、問題を黒板に書き示し、解けた者が先生にその解のノートを見せに行くという、方法だった。合っていれば英語の筆記体で「good」と赤ペンで書いてくれた。生徒達は速さを競っていたような気がする。 土曜日の午後、図書室で句会があった。先生3、4人と生徒が10人弱集まった。たぶん互選は発表しないで、芳雨先生の選評のみだった。どうして中学生が俳句のような地味な活動に勤しんだのかは、いまでも疑問であるが、たぶん先生の奇妙な迫力の故であったろう。短躯ではあったが、柔道をやっていたせいか、強靭で力強い体型であった。また聲も鍛えられていた。酒が大好きだったせいか、酒焼けの顔をしていた。その先生が主宰していたのが「潮流」という俳誌であった。 この地には黒崎の松原と名付けられた白砂青松の海岸があった。紀貫之の「土佐日記」には次のように記されている。「所の名は黒く、松の色は青く、磯の波は雪のごとくに、貝の色は蘇芳に、五色にいま一色ぞたらぬ」。足りないのは黄色。かつて貫之の祖、紀氏が治めていたのだった。この泉南郡岬町はいまでも大阪府では唯一の自然海岸が残っている。 このような自然情況を背景として、先生の俳句指導があった。芳雨先生には青少年を育ててやろうという強い意欲があったのだろう。句会もその場かぎりのものではなかった。もともと先生は「南風」(当時は山口草堂主宰)同人であった。(おかげで、山口草堂さんや鷲谷七菜子さんともお会いできた。)見込みのある生徒は親雑誌(南風)に推薦したり、俳句を紹介もしていたようだ。加えて、新聞の「サンケイ俳壇」に教え子の俳句を投句していた。生徒本人に知らせることもなく、自ら葉書にせっせと認めていたのだ。私たちは選ばれた句が新聞に載って、初めてその事を知ったのである。先生の指導よろしきを得て、大人たちにまじり、サンケイ俳壇賞を何度も獲得する生徒が出てきたりもした。一時、俳壇でも注目されていたように思う。私の俳句も何回か選ばれた。たぶん高校生になってからだった。「癒えし身に春暁の日の海広し」「曇天の花散る数の果て知れず」「泉に来て『濁すな』竹の筒で飲む」「青蜥蜴小さくて振る尾の速き」「木の葉雨女の言葉今生まる」。ただ今よりマシかもしれない。同じ日付けの欄に現在は親友になっている北野秀生の句「白蓮の匂ひは細き風の中」が載っている。彼とはもう50年も付き合っていることになる。 川口芳雨先生の教え子で、現在も活躍している俳人も何人かは存在している。「香天」代表の岡田耕治さん。「藍」の辻本孝子さん。「船団」所属の木村和也さん。彼は何と私の出身高校・文芸部の2年先輩である。また正統?な俳句はやめて、もっぱら駄洒落俳句を1日1句書いている土井英一さん。彼は私の個人誌「儒艮」に毎回「四季の苑 漫遊」と題するエッセイを書いてくれている。面白いので、隠れファンがいっぱいいるようだ。北野さんと同様、私の野菜供給源でもある。旧「海程」の大谷清さん。画家でもある。 毎日散歩をしている。田圃や畑の作物の生育状況を観察したり(自分のものでもないのに)、家家の庭の植木や草花を楽しんでいる。そういう道筋に、芳雨先生のお宅があり、時時、先生の相貌を思い出している。 (以上) ◆「初学のころ」:久保純夫(くぼ・すみお)◆ |
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