関西現代俳句協会

2018年12月のエッセイ

新とか旧とか

小林かんな

 言葉の新しさ古さに強い関心を持っている。先日、「しらける」という言葉を使ったアニメ好きアメリカ人に「その言葉、もう使わないと思うよ」と言ったのだが、その後「意外とまだ使うかな」と自信がなくなった。こだわる理由は、もし私が英語を習っている二十歳の若者なら、同世代の友達と話すのに、若くない英語を使うのはできたら避けたいからだ。そういうわけで、言葉の鮮度に気をつける反面、そんなに気にしてどうするのかと思う自分もいる。若者と同じ感度で言葉を知り、使うことは私にはできないし、そこまでしたら不自然だ。

 何より、二十歳の日本語を「標準」にすると、上の世代の日本語がそれと違っていたら、古くて教えない方がいい言葉と見なすことになるが、その考えには大きい抵抗がある。パラレルワールドにいる留学中の二十歳の私よ、若くない英語に不満とか言わず、教われ。その上で、実際使うかどうか自分で判断しろ。無理か。

 今年10月に『三省堂現代新国語辞典』第6版が発行された際、収録された新語に一部で反響があった。この辞書は唯一の “高校教科書密着型辞書” を謳っていて、「マウンティング」「沼」「ポチる」などの新語俗語が積極的に立項されている。去年10年ぶりに改訂された『広辞苑』も新語1万語を追加したとか。こうなってくると、減らされる語はあるのか気になる。『広辞苑』クラスだと、実用より、所有・ステイタスシンボルに近づいているとはいえ、紙媒体の辞書がかさばる一方で不都合はないのか。

 ファックスは近い将来一般には使われなくなると思うが、長年活躍してきたので、辞書でのポジションは安泰だろう。フロッピーディスクはどうか。MDことミニディスクはもっと短命だった。IT電化製品系以外に「ヤッケ」や「チョッキ」など、ファッション用語も移り変わりのスピードが速いが、モノが廃れたら残すか残さないか。「省線」の意味がわからないと、昭和初期に書かれた文献を読むのに差し支えそうだが、それは百科事典に任せるのか。どんどん厚くなりそうだが、新語の立項より死後の抹消の方がきっと難しい。

 紙媒体の辞書が新語を取り入れ過ぎると、長い目で見た時、裏目に出るのではと心配になる。新しければ新しいほど、流動的で、たちまち古びてしまう言葉は少なくない。自分の上司がやたら「写メして」と指示するが、意味がわからず、いったいどこの方言かと思っていたというある若者のツイートが一時期話題になった。私もショックを受けた一人だが、確認しようと、「上司」「写メ」のキーワードで今ググっても、そのニュースがもう見つからないことに更に衝撃を受ける。スマホとLINEが普及した今、確かに「写メする」機会は私もほとんどない。何の略か思い出せないほど定着していた言葉なのに、もう死語扱いされるとは。一時隆盛した「ケータイ小説」も今はそう呼ぶか甚だ怪しい。

 書籍としての辞書の編纂には大変な時間と労力がかかり、10年に1回以上のペースではたぶん改訂できない。新語の意味とかそんなに盛り込まなくても、伝統的な意味用法を充実してどんと構えていれば充分と思うのに、そうもいかない事情があるのだろう。

 年下の者が年配者に従うという従来の価値観は有効でなくなった。ともすれば、年上の人間が若い世代の動向に注目し、もてはやし、そうではない自分を若さがないと遠慮したり、卑下したりしかねないご時勢だ。どちらか極端な構図ではなく、どの世代でもお互いに敬意と自負を持って接し、学び合い、刺激し合う程よいバランスがとれたらどんなにいいか。グローバル時代の変化とやらによる、かつてない世代間ギャップの溝に、年の離れた人間関係が遠ざけられるとしたら寂しい。

 若い人で俳句を詠む人は昔予想されたより、ずっと多く、口語的に詠む人もいる一方、文語旧字で詠む人も少なくない。俳句の世界は古い知識が尊ばれる稀少なオアシスだったりするわけだ。若い人は別に敬老精神で俳句を詠むわけではない。決してない。それでも何か安らぎを感じてしまう。

   

(以上)

◆「新とか旧とか」:小林かんな(こばやし・かんな)◆

▲今月のエッセイ・バックナンバーへ