関西現代俳句協会

2018年9月のエッセイ

ヒロシマの首飾り

花谷 清

 過ぎ去った歳月を、遠い過去のようにも、つい昨日のようにも感じる。

 2011年4月始めのことだった。大学院講義の開講日を、例年通りの期待とその年に限った不安とを持って迎えた。期待は、受講者にどのような顔ぶれが集まっているかということ。一方、不安は、直前の3月11日に起こった東日本大震災の行方であった。地震による津波と福島原子力発電所の溶融という事態について、新しい情報がつぎつぎと伝えられつつあった。全貌は依然、混沌としていた。おのずと、チェルノブイリ原発事故の起こった1986年の夏が思い出された。その夏、ぼくは南ドイツのミュンヘン郊外に滞在していた。市民のあいだでは、チェルノブイリから吹いてくる気流が到達したときに降った雨が牧草を放射性ヨウ素で汚染し、牧草を食べる乳牛を介して、ミルクを飲む幼児の被曝につながる懸念が取り沙汰されていた。

 講義を始める前、はじめて顔を合わす最前列の受講者にチェルノブイリの事故について尋ねてみたると、「覚えていない」という。後ろの列の受講者にも尋ねたが、やはり知らない。ぼくは意外だった。しかし、それもそのはず、22歳か23歳の修士課程の彼/彼女たちは、25年前のチェルノブイリの事故とき、まだ生まれていなかったのだ。

 ある世代にとっては忘れられない事件や災害であっても、それが必ずしも後続の世代の認識や理解に繋がるとは限らない。かつて逆の立場から、似たような世代ギャップを意識した授業が今ここに甦る。それは、小学校と中学校の授業であった。ナガサキとヒロシマで被爆された2人の先生が、原爆投下の瞬間の体験をそれぞれ一度だけ、話されたことがあった。

 ひとり目は小学5、6年の担任だったW先生。旧制高等学校生として学徒動員で駆り出されたナガサキの軍需工場で被爆された。すぐ真向かいのひとが即死されたこと、自身も気を失われたこと、工場の鉄骨が飴のように曲がってしまっていたこと、また黒板に放射状の線を書き示しながら、爆死しなかったのは、放射線の直撃を奇跡的に反れたからであろうこと、を言われた。

 ふたり目は、中学2年の国語の受け持ちのK先生である。女学校のとき、ヒロシマで被爆された。登校の直前、「ピカドン」の閃光が走って窓ガラスが部屋中に飛び散ったとのこと。「ピカドン」という即物的な呼び名が、原子爆弾とは一体何なのか、まったく知りようもなかった当時の被爆者の衝撃をよく表わしている。先生には血液中の血小板が少なく、身体の免疫が弱まる症状が見られた。

    つゆけしやチェルノブイリの首飾り      清

 いくたびの整形で目立たなくなってはいたが、放射性ヨウ素による甲状腺癌の手術により、首筋に痕の残るK先生を詠んだこの句、実際は〈ヒロシマの首飾り〉というべきものである。

 学齢をふり返ると、ナガサキの話は10歳に、ヒロシマの話は13歳に聞いていたことになる。あのとき、W先生もK先生も、つい昨日の事のように話をされた。教室はしんと静まり返った。それでもやはり、ぼくたちは原爆の投下を、生まれる前の、遠い昔の出来事のように聞いていたのではなかったろうか。

 いま思えば、わずか10数年前の、ほとんど同時代とみなし得る体験を語ってくださっていたのだ。

(以上)

◆「ヒロシマの首飾り」:花谷清(はなたに・きよし)◆

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