関西現代俳句協会

2018年5月のエッセイ

選のチューニング

小池康生

 現在は関西在住だが、東京に10年ほど住んでいたことがあり、それがどっぷり「銀化」の句会に嵌っていた時期でもある。「銀化」には月に8回ほど句会があり、すべてで中原道夫主宰の講評が聞ける。

 わたしは月に最低でも4、5回は銀化のどこかの句会に参加していて、多いときは、7回ほど出席していたこともあり、ある種のビョーキ、依存症になっていたのかもしれない。

 主宰の句集をたまたま図書館で読んで入門した者としては、主宰の講評を聞けることはなんともありがたく、道夫選の裏付けを知ることができるわけだし、作句の秘密にも近づけることになる。これを月に5回ほど聞くと、相当勉強になった。

 最初は、自分の句がどれだけ採られるのかが気になるのだが、次に、主宰と自分の選がどれだけ重なるかが気になってくる。最初は1句か2句しか重ならなかったものが、少しずつ増え、やがて7句選の内、5句重なることもたまにできてきて、内心、欣喜雀躍ということもあった。

 主宰の選に合うことが良いかというと、そこには色々な意見も生まれるが、当時のわたしは、一旦、主宰の選ぶような句を選びたいと思っていた。

 選句のときには、もちろん主宰のことは忘れている。自分の好みで選んでいるのだ。ただ、頻繁に講評を聞いているので、どこかで道夫の「できている句」が刷り込まれ、「見ている句」や「発見のある句」等がどういうものかを意識して印をつけていた。

 自分の好みで選をしているのだが、主宰から学んだセオリーの裏付けのようなものが影響してくる。自分の句が採られなくても、選が重なれば人知れぬ充実感を得られたものだ。

 そんな10年があり、関西に戻り、さらに10年――。体調を崩したこともあり、簡単に東京にいけなくなった。欠席投句は送っているが、あの空間のなかで、主宰のそばで選をして、主宰の選との違いや合致点を確認する作業はできない。

 主宰に近づく求心力のような選もあり、主宰から離れる遠心力のような選もあった。いずれにしろ、軸があり、そこを起点に近づいたり離れたりしているのだ。作品が主宰に似るのは、ただのコピペで、学ぶは真似るであれ、早く通過すべきことだが、選が似ることは俳人のある種の芯を作り、師系の幹のようなものになるのではないかと考えている。

 ある日、突然、初老という年齢になり、東京での俳句修行を思い出すと、あの10年がどれだけ貴重なものだったかが分かる。わたしは、いま、どれだけ主宰の選に重なるのだろう。どれだけ、主宰と異なる選ができているのだろうか。 東京がちと遠い。

(以上)

◆「選のチューニング」:小池康生(こいけ・やすお)◆

▲今月のエッセイ・バックナンバーへ