関西現代俳句協会

2018年4月のエッセイ

高野素十のコントラスト視点

橋本小たか

 先日、読売文学賞を受賞された山口昭男さんは波多野爽波の弟子だった。
 しかし、山口さんの端正な文体は爽波よりもむしろその先達のひとり、高野素十に似ている。

    花一片花一片の雨に散る       素十
    溝の水つよく流るる辺に落花     爽波
    しばらくは落花にまかす女身かな   昭男

 せわしない爽波俳句に比べ、ゆったりとした余白。
 それは昭男俳句の特長であるとともに、素十俳句の特長だった。隔世遺伝というべきか。(1句ずつじゃ納得できない? まあ、勘弁してください)

 一元俳句の写生の徒としてしばしば引合いに出される素十。
 とは言いながら、素十俳句をまとめて読んだという人は案外少いのではなかろうか。

 素十一流の一元俳句はどのように組み立てられているのか?

 今回は『高野素十自選句集』(永田書房)を片手に、素十のレトリックを読んでみよう。

 はじめに結論めいた話になるが、素十俳句はコントラストによってできている。
 描写が精密なのではない。コントラストが鮮やかな結果、描写を精密に感じるのだ。

  では、コントラストのパターンを見てみよう。

1 動作+状態
 「残雪の伸びて大庭石に載り」は、動的な動き「伸びて」のあと、静的な状態「載り」。
 単に時間順に追うのではなく、動と静、動作と状態のコントラストで組み立てられている。

 「燃えてゐる火のところより芒折れ」「何草か萌え何草か枯れしまま」「笏もちて面かくるゝ雛かな」。
 「空をゆく一とかたまりの花吹雪」も同じ。

2 動作+動作
 「歩み来し人麦踏をはじめけり」は、動的な動作「歩み来し」と静的な動作「麦踏」のコントラスト。すたすた来て、もくもく。

 「泡のびて一動きしぬ薄氷」は「のびて」という比較的ゆったりした動きからの「一動き」。

 「ひざまづき蓬の中に摘みにけり」「摘草の人また立ちて歩きけり」は、静から動、且つ、上下の動きから横の動きへ。

 「屋根替の一人下りきて庭通る」は、どちらも動のようだが、これも縦の動きから横の動きへのコントラスト。

3 Aの動作+Bの動作
「岩すべる水にうつぶす椿かな」。動的な水と静的な椿。

 「水草の生ひ出でし葉に水の乗り」縦に生え出る水草に対して、横から水が乗る。

4 「れば」
 コントラストが出やすいので使い勝手がいいようだ。

 「春寒き村を出づれば野は広く」「弘法寺(ぐぼふじ)の坂下り来れば鶏合」「春水に沿うて下れば石切場」。上から下へ。あるいは広い場へ。

5 「あり」
 「人々のゐならぶうしろ春田あり」「半日の用擲つて花下にあり」。
「ゐならぶ」「擲つて」と強い言葉を持ってきたあとに静かな「あり」。

6 対比
 色などのコントラスト。
 「紅梅の花あちら向きこちら向き」「田打着の妹のもの兄のもの」「青かりし赤かりし雛あられかな」 傍若無人ですね。

 6つのパターンを見てきた。
 無意識的にかもしれないが、この写生の徒の目は、風景にコントラストを探し求めているだろう。

 あの「翅わつててんとう虫の飛びいづる」の、翅を左右におもむろに開く静と、まっすぐ飛び立つ動。
 あるいは「づかづかと来て踊子にさゝやける」のづかづかと来る動と、ささやく静。
 それは偶然の産物ではなく、素十得意のコントラスト視点の賜物だった。

 もちろん、コントラストだけが素十ではない。

指示名詞+数字
 「まづこゝにおいらん草の芽の二つ」「惜別の一盞ここに白魚汁」「朝顔の双葉のどこか濡れゐたる」。

「かな」+数字
 「水草の生ひ並びたる二葉かな」「大打に打ち終りゐる一田かな」「水の上に花ひろびろと一枝かな」「花吹雪吹きつゝみたる一木かな」。

大胆なリフレイン
 「斯くの如く斯くの如くに梅白し」「顧みて又顧みて梅白し」「遅桜遅椿遅わらびなど」
 私が好きなのは「嫁菜萌ゆ嫁菜に似たるものも萌ゆ」。堂々として無内容。

 静と動のコントラスト、数字、リフレイン。「ありのまま」を写すもっとも精細な描写として語られる素十は、むしろもっとも様式美の強い作家だったのかもしれない。

※ 各分類の名称等は私の作句のための便法です。「動作」と「状態」の区分けが曖昧とか、そのへんご寛恕ください。
※ 繰返し符号が表現できないため、一部表記を変更しています。

(以上)

◆「高野素十のコントラスト視点」:橋本小たか(はしもと・こたか)◆

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