関西現代俳句協会

2016年11月のエッセイ

初学のこと

丸山景子

 秋になると北原白秋の―からたちも秋は実るよ まろいまろい金の玉だよ―というフレーズを思う。
 私の通っていた旧制女学校はからたちの垣が、東と南側にめぐらされていた。通っていた時は殆ど関心がなかったが年が経つほどかつての風情がなつかしい。その女学校は昔から女子師範学校と併設されており授業は全く別でも、朝礼、運動会、適応遠足、掃除など、戦後まで合同で行われていた。
 入学したての時は、6歳から7歳位上の師範本科生は、びっくりするような貫禄のあるお姉さん方であった。

 女学校の低学年のある時、どういうわけか私は先生方が主になさっている句会に出席していた。出席した経緯はさっぱり思い出せないが、お掃除の時間に師範生に誘われたのかも知れない。
 毎月定期的に行われていたらしく、その日には先生方(主に師範学校)6、7人、生徒3、4人だったような気がする。流石に場違いな所に紛れ込んだと、情けなかった記憶はかすかに残っている。
 上級生に誘われたら、どんな所か分からなくても出席せねばと思ったのだろうか。自分の句は勿論他の人の句も句会の形式、次第も殆ど覚えていない。日頃なじみのない先生方がずらっと並ばれていて、理解出来ぬ話題で楽しげに話しておられる。
 そのうち廻って来た或る句に注目され「ほう」と感嘆の声を挙げられた。お坊様かと思われる風貌の先生の作で、

    汗臭き髪の女が来て座る

というのであった。
 私は何と美しくない句だろう、大人って厭だなあと思ったが、先生方が感服しておられるのを見て、分からないながらそのリアルさが印象づけられてしまった。今まで忘れられない所以である。
 句会はそれきりで続けられなかったが、大人の楽しみについてゆけず、当時の私には無理というものであろう。
 今は小学校でも指導者のリードで生々した句が生れているのを見ると、かしこまっていた句会は古風で隔世の感ありと思いつつも妙になつかしいのである。

 その後戦争が激しくなり上級生は軍需工場へ次々動員され、私達も1年上の上級生から学校工場を引き継いだ。その前から農業動員を始め軍関係の事務手伝など授業はままならなかった。思えば勉強しないで済む安易な気持ちに流されていたのは否めない。
 戦後も落着かず、先生不足で教科も整っていなかったように思う。
 そんな時学校出たてのM先生が、国語の担当で赴任して来られた。熱心ではあったが、我々女学生の戦中戦後をご存じなく、ただ余りの無知に驚かれ、きびしくいつも怒っておられた。
 急には力はつかないと、自分の不勉強を棚に上げ、不幸な時代を恨めしく思った。
 でも今まで女学校に縁のなかった漢詩も教えられ“帰りなんいざ”なんて素敵だと少し覚えもした。先生は課外の文化部活動にも熱心で、入部してみたら教室より怒られなかった。
 意外にも俳句も作らされ、句会は全く講評だけであった。短い間だったが、自由な雰囲気が楽しかった。文章を読んだりしたが何かは覚えず唯一自作の1句だけが頭に残っている。

    明けやすきはたは静かに広がりぬ

 次の句作の場に至るまで二十年以上の時間が流れた。勤めていた会社に桂信子先生が見えられて再開となったのである。

(以上)

◆「初学のこと」:丸山景子(まるやま・けいこ)◆

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