関西現代俳句協会

2016年10月のエッセイ

チョコを食べるのをやめてしまった

久留島元

 俳句の楽しさは、チョコを食べるのをやめられないのと似ている。

 と言った友人がいた。中毒性があって、一度やめてもまた食べたくなる。そう言っていた友人がチョコ、いや俳句から離れて、もう何年にもなる。

 伝統系の結社に入り、大きな新人賞も受賞して、かなり期待された若手だった。静謐な句風で、同世代の中でも抜きんでた存在だった。

 同じ大学で、一緒に学生句会をたちあげたが、人の集まりが悪く、二年ほどで活動は休止した。私が大学院に進学し、一年後輩の彼女が就職してから、何度か連絡をとったことはあったが、また飲もう、句会やろうと言いながら、結局いまだ会わずじまいである。


 俳句甲子園で優勝した、その日が顧問の先生の誕生日だった。

 そんなドラマチックな優勝を果たした後輩がいる。取り合わせる言葉が奇抜で、日ごろ生真面目で大人しいのに、日常を非日常に変えてしまう魔法のような俳句を作った。季語や俳論の勉強も好きで、新人賞もとって、順風満帆だと思っていた。 大学進学で地元を離れ、句会の機会が減ったと言っていた彼が、だんだん地元に帰っても句会しましょうと言い出す機会が減り、いつの間にかすっかり俳句から離れていた。

 一度、彼の下宿に泊めてもらったことがある。ちょうど『新撰21』が出たばかりのころで、私はそれを手土産に、彼にとっても旧知の人たちの活躍を話して聞かせた。彼は懐かしそうにそれを聞いていたが、結局一度も本を開くことはなかった。その夜はそのまま馬鹿話をして終わったが、本当に俳句に興味を失ったのだと、すこし寂しい思いがした。


 俳句を離れた友人たちは多い。進学や就職、結婚など環境が変わり、ほかに打ち込めるものを見いだした人。人間関係のトラブルで疎遠になり、それっきりになってしまった人。特に理由もないまま熱が冷めて去って行った人たち。

 私よりよほど才能と機会にも恵まれていた人たちが、あっさり俳句から去ってしまった。特に期待もされていなかった私が今も俳句を続けているのは、ただそれが許される環境にあったからで、偶然の要素も強い。だからそれを誇ろうとは思えないし、むしろ気恥ずかしささえある。

 それでも私はいつか、ふと立ち寄った本屋の隅で、あるいはネット上で、彼らの目に「俳句」の文字が触れることがあるのではないかと思う。そのとき、俳句への関心が少しでもざわつけば、それで俳句は報われる。俳句は、俳句を続けていく少数の作家とともに、俳句に関心を持つ多くの裾野に支えられてこその俳句だ。 だからこそ、いつか彼らに届く俳句でありたいと思う。

 再び彼らが手にしたくなるような、そんな俳句でありたいと思う。

(以上)

◆「チョコを食べるのをやめてしまった」:久留島元(くるしま・はじめ)◆

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