関西現代俳句協会

2016年9月のエッセイ

灸花

志村宣子

 家事や雑事に追われながら俳句を楽しんでいる専業主婦の私達にとっては、季題が現実的になるのが不満だ。自然を繊細に詠んでみたいという思いがつのる。

 吟行で家を出る時は後ろめたいものが有るが、髪を結い化粧をすると表情も柔らかくなり外出着を纏ったとたん鼻歌まで飛びでる。

 母親、妻という立場から脱皮して女になる充実感は男性には想像出来ないだろう。

 精神統一して紅を引く。変身する最後の仕上げだ。

 メンバーと自然の中へ足を踏み入れてしまうと気分は高揚する。自然を観察する五感も研ぎすまされ、見るもの、聞くもの、触るもの匂うもの、どれもが新鮮に伝わってくる。

 夏の終わり、近くの比叡山に吟行に出かけた。

 高く茂った森の木立ちの陰でひっきりなしに鳴く蜩の声は秋の訪れと名残り少ない命を惜しむ様に寂しげだった。「ツクツクホーシ」と呼びかっける声は奥山の寺院の厳粛な佇まいに小気味のよい「気」を漂わせていた。

「この花可愛い、花嫁姿に似ている」メンバーの一人が灌木に絡んだ薄紅色の釣鐘状の花びらを付けた蔓を見つけた。「姑みたいにじろじろ眺めるから花が震えている。」と冗談をとばしながら、「へくそ蔓と言う花よ。」と答えた。「花を嗅いでみて変な匂いがするから」

「灸花ともいうのよ、子供の頃、お灸を据えられたと言って腕に貼りつけてよく遊んだ花よ」と答えた。

 周りから楽しい声が湧きあがった。「成るほど花びらの毛が肌にくっつくのね。」

 自然を観測する皆の眼が熱っぽくなった。

 散々歩き廻った後、予約していた根本中堂の側の延暦寺会館へ昼食に向かった。

 涼風に吹かれながら雫滴るグラスでビールを一気飲みした。

 メンバーは、ほろ酔いに成りながら鉛筆を走らせ俳句を捻り出そう必死にメモ書きしている。

 眼下に広がる琵琶湖を眺めながら寺領に鳴り響く鐘の音聞いた時、なんだか罰当たりな事をしているのではないかと思った。

 しきりに暑がって家で留守番をしている家族の事を思い出したからだ。

 一瞬、後悔に似た思いが頭の中を横切った。私は慌てて摘んで来た灸花を腕に貼り付け自分にお灸を据えた。

 「皆さんにも、お灸を進ぜましょうか。」

  昼酒の女危うし灸花      宣子

 娘も嫁ぎ主人も天に召され一人ぼっちに成った今、比叡山より蜩の声が届く頃になると楽しかった家族達との生活の思い出と句友の懐かしい姿を思いだす。

(以上)

◆「灸花」:志村宣子(しむら・のりこ)◆

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