関西現代俳句協会

2016年6月のエッセイ

技能・芸能の霊性と歴史性

熊川暁子

 俳句を含め、文学論については常に語られる事が多いので、少し違った分野に触れてみたく思った。

 偖、現代では技能と芸能とはそれぞれ独立した領域を持つ文化圏であると理解されているが、古代・中世いや産業革命により大量生産の始まる近代以前の社会にあっては、日本でも西欧でも技能=技術と芸能=芸術とは一体化された技芸社会として現象して来た。

 それは日本においては「座」が西欧では「ギルド」の担う職能集団であった。その集団は多種多技に亘るが技法製法も秘守される閉鎖的で排他的な世界でもあった。

 では、我が国において「座」はどの様な起源を持ちどの様に発展して来たのだろう。

 一般的に芸能の祖神というと、天照大神の岩戸隠れの際、天の岩戸の前で肌を露出させて踊ったといわれる天宇受売命(あまのうずめのみこと)(猿女)を指すが、この岩戸隠れ自体は当時の葬儀⇔(もが)りの様子を伝えるとも、日食月食現象を指すとも伝えられる。私達は今も親族等の葬儀に際し死者を偲び酒宴会食又歌ったり踊ったりもするがそれは古代の霊魂信仰を今に伝える葬祭=祭なのである。

 そして『日本神社辞典』に依ると、この天宇受売命(猿女)を主祭神として祀る(やしろ)はどこにも無く、祀られる場合は伊勢国一の宮『延喜式』神社名=伊勢国鈴鹿郡椿大神社に主祭神として祀られている猿田彦大神の妻神としてセットで祀られる場合が多いのだ。ここにおいて猿女自体は霊性から歴史性へと変身するのである。そして猿田彦は猿は猿でも猿楽師(申る)の(おや)神として祀られるのである。

 そして、この猿田彦大神の遠祖は秦氏なのである。中国春秋戦国末期(紀元前221年、全土を統一した秦氏は長く続かず)次の前漢高祖の建国により滅ぼされたその集団が倭国入りしたのだ。記録では十数万人に及ぶとある。日本各地に移住している。

 その一集団が今の榛原(はいばら)市(伊勢・伊賀)辺りを本拠地に幾世代に亘り、桑を植え蚕を養い絹糸絹布を税として上納して来た呉服部の部民なのである。ちなみに榛原は木偏に秦と書く呉服部の末裔が多いこの地には服部姓が多い。俳人(服部嵐雪・土芳)儒学者(服部南郭)言語学者(服部四郎)家康の伊賀越を助けた(服部半蔵)と枚挙に遑がない。

 この秦氏集団は財力と組織力により、大和政権と協力に結びついてゆく。(藤原氏)

 推古朝に入ると仏教の伝来に伴い聖徳太子と秦河勝に依る、神社仏閣の建立、(みやこ)の造営(大土木事業)始め、仏像、仏具、神社の金メッキ等、独占的な「座」が形成されてゆく。

 金剛(こんごう)
 法隆寺四天王寺東大寺他建立。
 飛鳥京藤原平城等、(みやこ)の造営―土木
・猿楽―能では金剛流を称す
 金春(こんぱる)
 神社仏閣、仏像、仏具の金メッキ
・猿楽―能では金春流を称す
 結崎(ゆうざき)
 棚機…呉羽綾羽の能衣裳 能面、猿田彦が糸井神社の祭神とある。
 鼓・箏・太鼓・鈴・舞楽雅楽一式
・猿楽―能では宝生(ほうしょう)流を称す
 結崎座から大和猿楽四座の誕生
 ①出合の座②結崎座③宝生の座④竹田の座(観阿弥世阿弥の誕生)
・猿楽―能では観世(かんぜ)流を称す

 有名な「風姿花伝」には能の心得、美の理念、舞の所作、出自については「我は秦河勝より出でし者数えて三十一代目竹田清次こと観阿弥と申す。縁者に楠木正成、正季ありと驚くべき事が書かれている。能は切磋琢磨し足利義満の保護の下大いに栄え、大名家、武士階層の嗜となってゆく。

 中世に入ると爆発的な商業の発達により座も変容してゆく。金融業質屋兼の土倉(つちぐら)、物流の馬借、金座、銀座と日本の経済基盤となる日本の技術力の高さは座の貢献であろう。

 遥か縄文の民の残す霊魂霊性の宿る火焔式土器、勾玉に見る神性、埴輪の優しさ他、古代より連綿と伝える技芸に感服でありました。

(以上)

◆「技能・芸能の霊性と歴史性」:熊川暁子(くまかわ・あきこ)◆

▲今月のエッセイ・バックナンバーへ