2015年10月のエッセイ島の眺め田宮 尚樹
子供の頃から島を眺めるのが好きだった。 四国愛媛の松山から海岸沿いに西南西へ60キロ、伊予灘に面した佐多岬半島の付恨である。江戸時代には宇和島藩と分家の吉田藩が参勤交代の折、南の宇和海が荒れた時に半島中ほどの三机港の代替に利用したこともあったという。幕末にはシーボルトの弟子で藩医の二宮敬作が出た。シーボルトの娘イネを養育し、高野長英を匿ったことでも知られる。 村から北30キロ沖に山の天辺が台形になって東西に広がる山口県の平郡島が見えた。冬は波の上、春は霞の上、秋には全貌がくっきりと見えた。山頂の標高452m、島としては高い。そのすぐ沖にはより大きい周防大島(屋代島)の影が重なっていた。周防大島の横長の鞍部の奥に、やや険しくごつごつと盛り上がった島山が宮島だと聞いた。宮島までの距離は90キロ、天気の悪い日は見えぬことが多かった。 平郡島の西には八島が見え、その沖には本土と長島の問、上の関の瀬戸も見えた。長島の西に並ぶ円い祝島からは島影が絶え、周防灘の海原だった。盛夏の頃にはこの海原を染めて夕日が落ちた。更に西南の果に目を向けると好天には大分県国東半島のなだらかな影と沖の小さい姫島が見えた。そこまでの距離70キロ、初秋の頃の落日はことに荘厳だった。国東半島と姫島の聞をずっと行けば関門海峡だと聞いたが140キロ北西では見える筈もない。秋の彼岸を過ぎると太陽は南に下がり佐田岬半島の山を越えて宇和海に落ちた。春迄の半年は海も暗くなった。少年の頃には、日差しを受けて毎日沖を行く関西汽船別府航路の白い船体を見ながら、これらの島々を全部巡って見たいものだと思っていた。 後年国東半島の石仏を訪ね沖に姫島を眺めることが出来た。また村からは全然見えなかった関門梅峡へも行き、赤間神宮に参った。先帝祭の前日の花道では上臈衣装の乙女たちが舞いを練習していた。七盛塚は静かだった。 宮島へは季節を変えて数度行き、弥山に上り故郷の方を眺めたが村の位置はしかと確認できなかった。幕末の長州征伐では周防大島へ上陸した松山滞が散々負けて殿械は松平から久松へ改姓を余儀なくされ領民から揶揄されたことも知った。そして近年、祝島や上の関の原発反対活動を知り報告書を読む機会があった。というのも故郷の10数キロ西に伊方原発が出来その白い影が遠く見えるようになったからである。40キロ沖の人たちはどんな思いで対岸四国の原発を見ていたのかと思うと複雑な気持ちになる。 また亡き母の話によれば広島に原爆が落とされた日の朝、近所の人達が出合って田に水を引く井出の修理をしていたそうである。遠く100キロ沖に立った赤黒い火の玉が何なのか分からず、気持ちの悪さを言い合いながら老人と女たちで恐れつつ見つめたという。 10年程前にテレビで平群島を映した番組があり、遠景だけ親しんだ島の様子が分って懐かしい思いに浸った。巡りたいと思った島々の中で行く事が出来たのは、ごつごつと天辺だけ見えていた宮島だけである。村から見えた島々を巡る夢は夢に終りそうである。 今日よりは山に円の入る秋彼岸 尚樹 (以上) ◆「島の眺め」:田宮尚樹(たみや・なおき)◆ |
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