関西現代俳句協会

2015年5月のエッセイ

生存証明

出口善子

 近ごろは、事あるごとに「後期高齢者」ですと先手を打ってバリケードを張ることにしている。正確には、後期高齢者初心者なのだが……。それはさて置き、今年からは怠けず、元気でいる限り年賀状を出そうと決心した。何時いなくなったかが、大体分かるように。そうすると、これまで俳句雑誌を送って下さっていた編集部の方は、直ちに名簿から名前を消すことが出来るというものだ。

 さて、今日も一枚の葉書が届いた。俳誌「風来」が和田悟朗氏のご逝去に伴い終刊となったというお知らせだ。爾後の同誌の去就には言及がないので、文字通り終わるようだ。伊丹公子氏に次いで、また関西在住の現代俳句の重鎮を喪った。

 唐突だが、私の師、「花曜」主宰の鈴木六林男の病床を訪れて、最後に尋ねたのが、和田悟朗氏を師の後任選者に依頼してもよいかと云う件であった。

 何の選者かというと……。

 かつて、「なにわ七幸巡り俳句大会」というのがあった。「なにわ七幸」というのは、在阪の七社寺、大阪天満宮、住吉大社、四条畷神社、大念仏寺、今宮恵比須、四天王寺の事である。2002年度の当番役であった四天王寺が俳句大会を企画、第一回の選者に鈴木六林男を選任、他は師に一任されることになった。六林男師は、先ず、桂信子氏に白羽の矢を立て、私に、その依頼の電話をせよと命じた。桂信子氏には、現代俳句協会の大会などで、幾度もお自に掛かっていたし、いろいろお話を伺う事もしばしばあったが、若輩者の私が俳句の選者をお願いするなど、どう考えても烏滸がましい。だが、恐る怒る電話をかけると、有難いことに私の名前を覚えていて下さって「六林男さんが推薦してくれるのなら、喜んで」と快諾された。

 後一人は伝統派からと、後藤比奈夫氏には六林男師自身が依頼、この選考会は三人で始まった。当時、六林男師は「杖を突いてないのはワシだけや」といってにやりとしていたのだが……。しばらくして、桂信子氏が「宇多喜代子さんに代わってほしい」と言われ、字多氏にその旨を伝えると、「桂先生がおっしゃるなら」と、当時現俳協会長という重責を担われ多忙を極めておられたにもかかわらず、このローカルな俳句大会の選者を引き受けて下さったのだった。

 2004年晩秋、六林男師が入院、その代役として和田悟朗氏に依頼してよいかどうかを尋ねるために、先に書いたように、病床を訪れたのである。まさかそれから三日あとに師が亡くなられるなどとは夢にも思っていなかった。

 さて、この大会は後々も関西の高名な俳人、宇多喜代子、和田悟朗、大石悦子、茨木和生の各氏らが、綺羅星のように選者に名を連ねておられたのだが、2011年をもって閉会とたった。わが師・鈴木六林男も桂信子氏も他界され、今また和田悟朗氏の訃に接することとなった。和田氏はご高齢だったが、人は序列なく逝くものだ。私は「後期高齢者初心者」ではあるが、いつ先達方をさしおいてこの世を失礼するかも知れない。とにかくまだ生存しておりますと、毎年ご換拶をするのは必要な礼儀だろうと感じている此の頃だ。若い頃は、一年を顧みお世話になった方々に礼をいうのが年賀状だと思っていたのが……。

 この「風来」終焉の葉書を前に、「生存証明」の必要性を改めて認識した次第である。

(以上)

◆「生存証明」:出口善子(でぐち・よしこ)◆

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