関西現代俳句協会

2013年5月のエッセイ

句碑一群

山中 西放

 京都の山科には彼の醍醐寺を除いても三つの大寺があるが、その中によく仕事で門前を横切る門跡寺院〈随心院〉が奈良街道に沿ってある。醍醐寺の北方の地下鉄〈小野駅〉の東徒歩10分、紅梅の名所として京都では名高い。

 其の寺の正門の北側には立派な庫裡と見られる黒い建屋が隣接し、そこで食堂が営まれており、知る人ぞ知る味の店として今も続いている。一度入った事があるが、大きな紅白の縞椿の溢れ咲く中、啜っても啜っても減らない美味しい蕎麦を思い出す。

 20年ほど前であったろうか、そこでこんな貼り紙を見た事がある。『人の為と書いて偽りと読む』と。ここには僧籍と思われる方の生活訓や人生訓が折々に全紙ほどの大きさの紙に墨書され外壁に貼られているので、何時も其れを楽しみの一つとして走る車から読んで通る。

 折しも市会議員の選挙の時だったであろうか、なかなか風刺の効いた名言であると深く心に留めたものであった。思い出す度に政治に裏切られて来た溜飲が一気に下がる。

 しかしいま、小さな壇寺の総代を勤めるようになって、いや何かもっと深く読むものではないかと思うようになってきた。

 人間は家族の為、地域の為、会社の為、社会の為、国民の為など大義をもって、〔他人の為に〕を一所懸命生きる心の支えにしている。是は一体本意なのだろうか。

 よく引き合いに出る夏目漱石の言葉の「情けは人の為ならず…。」は他人に情けをかけるのは長い意味で自分の為になるのだと云う事である。

 とすれば『人の為と書いて偽りと読む』と云うのは、それらはすべて自分自身の為にしているのだと自覚せよと云う意味になる。つまり他人の為などとおこがましい大義など忘れて無心に〔自分の為〕との思いに従がって生きよと云う教えである。思えば漱石の名言も決して新しいものではないのだが…。

 かつてブッシュ大統領は〔正義〕を連発し其れを錦の御旗にイラクを攻撃し自国の兵士・イラク人および無関係の人々を十幾万人殺戮した。その結果得たものは果てしない戦の泥沼であった。ウラン弾は今も大地を汚染したままである。〔正義の為〕とは何とおぞましい大義であり偽善であったろうか。

 人は誰の為にも何の為にも生きるのではなく、自分自身の為に生きるものなのである。

 この寺に近年出来たものに、境内の南の内塀に沿って東へ東へと並ぶ無数の句碑がある。著名な俳人の孫と名乗られる方の募集で行われた事業で、一人二碑以上の五~六〇センチ角の句碑が仲良く日を浴びている。憚ることの無い俳人の幾百の心のささやかな輝きの自在の場所である。私の『句碑を歩く』シリーズには収めなかったが、渦の俳人も二人句碑群に混じる。

(以上)

◆「句碑一群」(くひいちぐん):山中 西放(やまなか せいほう)◆